21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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Newsletter No.10

2004/12/20

contents


■活動状況

 第11回研究会

日 時:2004年11月13日(土)

《報告1》

親密圏への宣教論的眼差し
― 死者の居場所 ―

寺尾 寿芳

【要旨】

1. 揺れ動くカトリック教会

 筆者にとり身近なカトリック教会を中心にして述べたいが、この巨大な「世界(普遍)教会」は現在深い懊悩に苛まれつつある。宗教界における欧米の主導権がまだかすかに残っていた第二ヴァティカン公会議(1962-1965)の時代とは異なり、いまや脱西洋化が進んだ実質的な宗教多元主義の世界へと移行済みである。と同時に、それはたんなる民族的ないし文化的な次元で特殊化が進展することを意味しない。たとえば日本教会を例にとると、信徒水準では日本人が従来大多数を占めてきたが、近年急速に外国籍信徒が増大し、いまでは推定半数にまで至っている。まさに伝統的な普遍観や特殊観からは現在教会が直面している動態を理解しがたいのである。特殊教会を単純に集積していけば普遍教会になるわけでもなく、普遍教会を特殊性に投射すれば特殊教会が成立するわけでもない。ともかく問題性が先行する事態が生起しているといえるだろう。日本教会にしても、新国立追悼施設問題やヴァティカンの「アジア」に対する過剰な神学的警戒や人材枯渇不足といった内憂外患を抱えている(この事例では、信仰の視点と地域性の視点とで、内と外は入れ替わる)。

2. 『記憶と和解』文書をめぐって――教会論から宣教学への移行展開

 宣教の原点としてのまずは教会が自己をいかに理解しているかが焦点をなす。まず宣教とは「布教」ではなく「回心」という基礎理解があり、かつ、宣教地とは非ヨーロッパにかぎらずむしろより困難な再宣教地としてヨーロッパが挙げられる時代になっている。つまり、宣教学の根本的性格も自覚的主体が中心となる「伝える」から非自覚的状況にまつわる「伝わる」へと事実上の転回が起きているといってよい。従来型の教会論を前提とした演繹的な宣教学では実質的に無効であり、教会を包摂する社会性からの帰納的宣教学が要請される時代になったといえるだろう。

 ローマ聖座においても徐々に変化の兆しがみられる。現教皇ヨハネ・パウロ二世が過去の布教政策の過ちを認め、大聖年を迎えた節目に「ゆるしを願うミサ」(2000年3月12日)を奉げ、また教皇庁国際神学委員会はそのミサの理論的前提をなす文書『記憶と和解―教会と過去の種々の過失』を発表した。旧来の宣教に色濃く見られた排他的独善主義は影を潜め、自省的視線へと反転している。この転回は重要な変化である。がしかし、そこに顕著な審問の語法つまり教会は理性的に問題点を克服し、記憶を浄化しうるという確信には、統御不可能な他者が不在であり、自閉的で堅い正義に留まっている観がある。こうした眼差しを 〈共同性―統合アイデンティティ―強い正義〉と呼ぶことができるだろう。

 このような事態に対してカトリシズムに批判的でありつつも共感を覚える思想家や宗教学(たとえばVattimoやCasanova)から、社会に開かれ外部要素を考慮した自己理解と、それにもとづく柔軟な正義を希求する発想を知ることができる。この眼差しを〈公共性―均衡アイデンティティ―弱い正義〉と言うことができよう。しかしこの視線には社会的関係の調整を自主的に遂行できる啓蒙された主体性がいまだ残存しているといってよい。筆者としてはより開かれた、そして統御を断念したネットワーク的眼差し、つまり 〈無縁性―多重アイデンティティ―感応する正義〉がありうると考えている。そこに成立する宣教学は理性よりも情動あるいはその基礎にある感覚に根ざしたものになるだろう。

3.親密圏を体現する現代「教会=共同体」

 齋藤純一による定義を借り受け、それに若干の補筆を加え、親密圏を「具体的な他者の生および死への配慮を契機とする比較的小規模かつ持続的な秘匿的関係性」とする。この親密圏を体現する組織は、公共圏で中核的な役割を果たす中間団体とは、非対等性、被縛性、受動性、異種混交性という点で異なっている。そして教会はこれらの条件を十分に満たしている。また教会の社会的性格を考慮すれば、いわゆる信仰共同体としての教会を超えて、多様な人間や出来事が共有される周縁性を加味した動態的な「教会=共同体」(church=community)とみなしたほうがよい。そこでは疑似家族的な親密さのなかで、同一性(同じでありつづけること:idem)を断念することで自己性(掛け替えなさ:ipse)に賭ける緊迫した生動的情況が生起しているといえるだろう。

4.死者とともにある寛容、それを担うディアスポラ・カトリック

 近年の思想界を顧みれば、死者との共生という欲求が散見される。たとえば「死から死者へ(存在より関係)」(末木文美士)、「幽霊的記憶」(高橋哲哉)、「祈り―追放された感覚―夢―(主体ではなく)状況」(細見和之、田崎英明)、「死者と生者との同一化を想定する神秘的な作業」・「死者の人権」(米山リサ)などである。ここには、〈死(哲学者)―死者(宗教者)―死体(被差別民)〉構造における「死(哲学)から死者(宗教)へ」という移行が読み取れる。しかし教会はこの移行をただ受容するだけではなく、むしろ連動する形で「死者(宗教)から死体(民俗/土俗)へ」と眼差しを向けなおさねばならない。

 では、「死者の居場所となる教会」、「親密なる死者を迎え入れる現場の教会」のリアルなイメージとはいかなるものか。つまり死体に近い場所に屹立する「被差別教会」は可能かという極限状況の自覚へと問いは進む。それは教会=共同体の自己理解が傍観者から目撃者ないし証言者そして被害者へと降下していくことを示唆しよう。当然そこでは剛体的組織への依存を解体される経験―揺動・変容・成長―が見て取れよう。

 この志向は差別される立場に自己を同化することにまで至る。たとえば山口道孝神父のレポートに注目しよう。「プーナにイエズス会のJDV(サンスクリットで愛を修徳する)という名の神学校がある。…そのエリートの中にセバスチャンという神学生がいた。…留学から10年経って、プーナに再び行ってみると、彼は修道会をやめていた。それだけでなく、先祖がハイカーストの出であることがすぐにわかってしまう自分の名字を、もっとも低いカーストの名前に変えてしまっていた。そしてその地域全体のスラム住民が連帯するNGOを組織し、大勢の人から慕われる若い会長になっていた。カトリック教会からのサポートは1人のシスターと数名の若い女性だけのようだった」。注目すべきは、この元神学生がカトリックから離脱したわけではないことだ。むしろ彼は悲惨な状況に同化することで親密圏から再出発しようとしたのである。

 省みれば、西洋文明の世界展開における「第一波」(17世紀以前、世俗化以前)として中南米での文明融合的同化史を肯定したアーノルド・トインビー(『一歴史家の宗教観』)が指摘したように、既成文化を破壊つくした悲劇的な宣教こそが、逆説的に「土着の寛容」を懐胎しうる。リアルな死体の傍らに立ち尽くす絶望感や罪責感と一体になった絶対無差別性。それに依拠する寛容がありうるのだ。そしてそこにある正義とは、無痛文明化した先進社会へ腐臭をもたらす剥き出しの暴力への高感度ないわば臭覚的識別能力[くわえて温感])に依拠しうるだろう。こうした寛容は、匂い/臭いが共有される親密圏において「うつる/帯びる」可動性といった「いかがわしさ」に添いきる一種動物的な感覚を特徴とするだろう。

 またこうした被差別的/無差別的な「死者の居場所」たる教会=共同体を筆者はあえてローマからの統制を離れたことに重みを見出す「ディアスポラ・カトリック」と呼んでみたい。

補足1:当日質疑応答のなかで親密圏としてのカトリック教会におけるジェンダーに関して若干触れた。司祭の女性性について述べたが、カトリック教会を人的に構成する二大要素、司祭と修道女は、語弊を恐れず言えば、表面的(ないし公共圏的)な男尊女卑(司教および司祭が男性に限定されていること等)とは異なり、いわば「女性的な男性である司祭と男性的な女性である修道女」という一種の転回した関係にあるのではないかと思われる。この非日常的祝祭を想起させるジェンダー逆転現象の日常化は、親密圏としての教会においてなんらかの「深み」を醸成している可能性がある。まだ着想の域を出ないため、詳細は別稿に譲りたい。

補足2:紙面の都合上、ディアスポラ・カトリックに関しては、本稿ウエッブサイト版をご覧いただきたい(

(てらお かずよし・和歌山信愛女子短期大学教授/キリスト教学)

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《報告2》

「満洲」移民をめぐる寛容さの記憶
黒龍江省方正県の日本人公墓建立をとおして ―

坂部 晶子

【要旨】

はじめに

 植民地「満洲」の経験を題材として、かつての植民地社会がその歴史をどのようにうけとっているのかを、当該地におけるコメモレイションの様式をとおしてみていく。日本社会における「満洲国」関連の記念施設として著名なものに「舞鶴引揚記念館」があるが、そこでの主題は引揚のプロセスにまつわる「悲劇の物語」である。それにたいして「満洲国」の現場であった現中国東北地区での記憶の語りは、主として「日本の帝国主義侵略とそれにたいする民族的抵抗」というかたちをとる。しかしそのなかでも「植民地支配をおこなった日本人にたいする中国人の寛容さ」を示す言説もいくつか存在する。本報告ではこの「寛容さ」にかかわる記憶について特定の地域における記念行為の成り立ちをとおしてみていく。

中国東北社会にのこる植民地の記憶――日本人公墓の位置

 「寛容さ」の記憶の代表的なものは「撫順戦犯管理所」跡地の展示であろう。当施設は、日本人戦犯にたいし侵略時代におこなった罪を告白改悛させるというかたちで、死刑判決を一例も出さず(途中病死したものを除いて)全員帰国させたという経緯(その後日本で中国での経験を伝える活動をおこなった「中帰連」の事跡もふくまれる)を紹介している。

 もうひとつの例にあたるのが「方正地区日本人公墓」にまつわる語りである。ここは日本人の戦争犠牲者のために方正県政府が建設した墓であり、他と色合いが異なる。「満洲国」当時日本人の農業移民は「満洲国」国境近くに分散しており、植民地社会の権力体系が転倒し交通も途絶するなかで、多くの農業移民の家族が移住地に取り残された。その後黒龍江省東北部から哈爾濱方面へむけて逃げた日本人が集結したのが方正県近辺である。「満洲」からの引揚は困難を極め、途中で集団自決したり餓死・病死したりしたものも多く、そのまま中国に残された「残留婦人・孤児」を多く出した地域でもある。ここでの語りは、「侵略者であった日本孤児、日本婦人を養い育てた中国の人びとの寛容さ」というかたちをとっている。

「寛容さ」の語りの形成

 方正県は黒龍江省の省都哈爾濱から東へ164キロの小都市で人口22万人。県の北部は松花江に面し湿地帯が多く、主要産業は農業、南部は丘陵地となり林業を中心とする。

 方正地区日本人公墓は正式名称を「中日友好園林」といい、管理単位は方正県政府外事僑務弁公室、関係者にたいするインタビューではその目的を「中国の青年学生にたいし愛国主義教育をおこない、日本の軍国主義が中国を侵略した歴史を牢記すること」としている。年間の参観者数は最も多い95年に3000名ほどで、うち日本人が500名位、95%以上が団体客であるという。日本人墓参団は80年代になって始まり、外事弁公室の資料によれば、かつての「残留者」やその家族、日中友好協会、各地の平和団体などを中心に、毎年10数団体〜30団体、数百人が墓参に訪れる。

 方正県で亡くなった多くの日本人開拓団の遺骨を埋葬し、墓を建てようとするきっかけとなったのは、当地の日本人残留婦人のひとりの政府への陳情から始まった。当時中国では飢饉がつづき、日本人残留者の生活が逼迫するなかで、政府の政策として彼らの生活保障のための措置とともに、地方政府の手によって1963年に日本人の公墓建設がおこなわれている。当事者の松田ちえは、80年代に書かれた手記のなかで当時の気持ちを「人民政府に感謝します」という言葉で表現している。

 その後この墓を中心に他の地区の犠牲者の遺灰なども受け入れ、「方正地区日本人公墓」は黒龍江省内で死んだ日本人開拓団員の墓という性格を帯びてゆく。それはちょうど80年代にはいって日本からの墓参りに訪れる団体が増加していく時期と重なっているが、これらのかつての「満洲」とかかわりのある日本人たちの寄附によって、公墓の周辺は整備されて公園となり、展示館施設等も整えられていくことになった。「養育之恩、永世不忘」といった感謝の言葉や、「残留邦人の報恩の思い」「中国人民の善意にこたえるには」といった中国社会の植民地経験にたいする寛容さ、寛大さに感謝する言葉は、これらの人びとの手記などに散見されるものである。

 いっぽう方正県と日本の間を行き来する残留者や、「日本人公墓」を管理する県政府のなかでは、これらの言葉は(あたりまえだが)出てこない。そこで公墓に与えられる公式的な意義とは「中国の青年学生にたいし愛国主義教育をおこない、日本の軍国主義が中国を侵略した歴史を牢記すること」とされているように、東北地区社会に共通する植民地経験にたいするコメモレイションのレトリックである。

過去の経験を資源とした地域発展――観光ツアーの招致と日本への移住

 「中国社会の植民地経験にたいする寛容さへの感謝」という物語は、基本的には改革解放以降に方正を訪れた日本人参拝者たちによって形成されてきたものと考えられる。方正県側では現在、これらの日本人からの公墓へのコミットメントを資源として新たな発展が模索されている。

 ひとつめの方向性は日本人公墓にまつわる「記憶」を資源とした公墓の拡充計画と観光ツアーの招致である。外事僑務弁公室作成の「開発建設“中日友好園林”的可行性報告」によれば2002年から公墓拡大事業が行われ、方正県博物館(三階建て)の建設、植樹、人工湖、日本式建築物の整備、日本軍の侵華罪証のための文物の収集等が計画されている。また中日友好園林の開発建設の意義として、@中日両国の友好的交流と往来、A愛国主義教育、B方正県の海外知名度の上昇、C方正県の旅行業の発展とされている。県全体でも蓮花節の開催や蓮花湖、方正湖、方正原始森林景区等の観光地開発がすすめられている。

 もうひとつの方向性は、方正県に残された日本人残留者たちの「関係性」を資源とした「中国残留孤児・残留婦人」の帰国とその関係者の日本への渡航である。日中国交回復以降県内に残留していた日本籍の人びとは幾度かの身元調査を兼ねた日本への一時帰国を経て、現在ではほとんどが家族を伴って永住帰国している。その関係者を中心として、人口わずか22万人の方正県から、現在5万人ほどの人びとが日本へ定住、移住、出稼ぎ等でわたっている。日本からの観光客招致や援助等の流れと同様に、日本人残留者との関係性を元手にした日本への移動もまた方正県の大きな資源となっているといえるだろう。

おわりに

 中国東北における一種特異なコメモレイション施設である「方正地区日本人公墓」は、日本社会における植民地経験へのコメモレイション行為自体の困難さ、その種の施設自体の少なさもあり、日本人参拝者たちの中国での慰霊行為が拡大していった。その過程で公墓建設にまつわる「寛容さ」の記憶が日本人関係者のあいだで形成されていったと考えられる。現在ではこの物語を資源とし利用していくことによるツーリズムの拡大が行われている。一方で公墓建設の立役者でもあり中国社会に取り残され、その後数十年を経て日本社会へ帰国した「残留孤児、残留婦人」たち、その家族たち自身の語りは、これらの「寛容さ」の記憶と一種アンビバレントな関係をもっているのではないだろうか。

(さかべ しょうこ・日本学術振興会特別研究員・京都大学/社会学)

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■次回研究会の予定

◇第12回研究会

【日時】
  2005年1月29日(土)13:30−16:30

【場所】
  京都大学文学部新館5階社会学共同研究室

【報告1】
  報告者:落合 恵美子氏(京都大学大学院文学研究科)
  題 目:日本における性と寛容

【報告2】
  報告者:武藤 慎一氏(大阪府立工業高等専門学校)
  題 目:4世紀イラクにおける地域文化としてのキリスト教――そのマイノリティーとしての自己意識


編集後記

 Newsletter No.10をお届けします。年明けには今年度最終の定例研究会が開かれる予定です。はやいものでいつの間にやら年の瀬もせまり、この一年のニューズレターの原稿をもとにCOEプログラム第三回報告書をまとめる作業も慌しくなってきました。来年3月には刊行の予定となっていますので、出来上がりましたらお手元にお届けいたします。
 それでは、よい年末年始をお過ごしください。

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