21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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Newsletter No.12

2005/6/6

contents


■活動状況

 第13回研究会

日 時:2005年5月7日(土)

《報告1》

朝鮮無教会キリスト教と社会主義

ー金教臣を中心としてー

金 文吉

【要旨】

 明治のキリスト教指導者であった内村鑑三は戦争に反対し、平和思想を唱えた人物である。明治のキリスト教指導者はその当時、全ての国民が戦争を認めている最中「余は日露非開戦論者であるばかりではなく戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない」 と戦争に反対し、アジアの平和を強調した。
 内村鑑三だけではなく朝鮮においても内村鑑三の無教会精神を受け継いだ金ヘ臣がいた。彼は戦争に反対し、平和を主張した。当時、朝鮮はロシアの革命や朝鮮の3・1運動によって平和思想は一層高揚しつつあった。植民地での朝鮮人は日本帝国統治下からの解放のためなら武力によってでも独立を成すべきだと叫んだ。
しかし、朝鮮無教会指導者金ヘ臣は武力によって平和を取り戻す方法よりは精神的に、即ち信仰をもって平和思想を呼び起こし、朝鮮の独立を獲得すべきだと主張した。ハンセン病を患う心身の不自由な兄弟姉妹に福音の道を伝えようとする金教臣の志は一層燃え上がったのである。韓国ハンセン病者の収容所は金南商興郡小鹿島に設立された(1916年)。設立と同時金ヘ臣は小鹿島ハンセン病者のために『聖書朝鮮』をおくり、無教会信仰を教えた。
 今回は朝鮮無教会がハンセン病患者に与えた影響の内容を調べることにする。文信換は「聖朝誌」を聖書と同じように取り扱い、昼夜を問わず持ち歩いていた。彼が金ヘ臣に送った手紙を覗いてみよう。

 「ああ!先生が送ってくださった聖朝誌と愛のメッセージ等は世人からは得ることのできぬ、キリストの尊い血と尊い肉に浸された真の愛であります。先生が送ってくださった聖朝誌を無力な私が手にして黙々と見ながら抑えきれない涙を流す、小生の心霊には愛慕する聖朝誌を耽読する前から口では申しきれないほどの喜びに溢れ、その上、霊的にも満ち溢れる次第でございます。ああ!私の生涯の望みは我が主の熱烈な心から発生される聖書朝鮮を通じて、我が父の永遠な胸元に抱かれ永遠に向かうこと。また、復活であり、真理であり、生命であるイエス・キリストの形状に似ていくことと、全ての全てが成就されることを信じ、無限の歓喜に満ち溢れていること」 。

 特に「聖書朝鮮」を通じて、金教臣が小鹿島のハンセン病患者たちに及ぼした影響は二つあったと思われる。 まず、一つは内面的信仰についてである。日帝時代、朝鮮キリスト教は日本のキリスト教布ヘとともにあらゆる教団の中に無教会真理と社会正義を覚えたことである。当時無教会の信者が金ヘ臣のあてに送った手紙の話を聞くと、無教会金教臣のキリスト教信仰に熱い感動を受け、人生が変化した事がうかがえる。

 「12月18日(日)、感無量で惠書を奉読させて頂きました。書信一枚がそれほど貴いとは思っていませんでしたが、先生の惠書は私にとってあまりにも貴いものでした。ハンセン病は主が私に下さった頚木であり、試練の鞭です。私はこのハンセン病を通じて二千年前ゴルゴタで釘を打たれた主イエス・キリストに巡り会いその真理を知り、救いの福音の中で生まれ変わった故、私がハンセン病患者であった事実を決して嘆いたりはしません。ハンセン病でなかったら私が新たに生まれ変わる(重生:再び生まれること─最初は肉の誕生二度目は霊の誕生)恩恵に恵まれなかったように、私がイエス・キリストを信じていたとしてもハンセン病者でなかったとしたら、多くの先生たちが信じていらっしゃる真の生きた信仰の別天地を得ることは不可能であったことでしょう。よってハンセン病者であることを至上の喜びと悟り、感謝せざるを得ません。今度の書信では信仰的に色々とご念慮して頂き真に有難く存じております。主イエス・キリストの驚くべき恩寵があることを求めます(小鹿島 中央里信者拝上)」 。

 二つめは、外面的な(行動として示される)影響である。きびしい土木工事、製炭事業、軍需用の松脂採取、叺(かます)の製造、兎毛皮の生産、煉瓦製造、神社参拝等の肉体的苦役が多くあったにもかかわらず、金教臣のヘえに従って苦しい生活も辛抱した。だが当時無教会信者の中で急進的な者は辛抱せず逃亡することも多く、苦しんだ李春相は、園長の周防正秀を殺害した。李の判決文を見ると 、

 「入園後間もなく癩病患者特有の偏狹性より更生園當局に不正事實の伏在するが如く憶測を逞ふし,或は患者の一時歸省許可の不公平及日常作業の荷酷を指揮し、或は朝鮮總督府癩養所更生園患者懲戒檢束規定に依り設けられたる同園監禁室を目し患者を殺害せむが爲の設備にして、法律に依らず患者を 殺害しつつありと爲す等、園當局の在園患者に對する處遇に關し、種種の偏見誤解を抱く至りたるが就中同園看護主任佐藤三代治の日頃患者に對する取扱極めて峻烈なりしのみならず、昭和十?年八月より同十七年四月までの間、重病不自由患者に對する定食配給米より一日一合位を減じ、且月一回?合宛全患者に支給し来れる間食白米を全廢したる處、是悉く園長周防正委(當時五十八)の意図に出でたるものと妄断し、同人に対し極端なる反感を抱くに至り(1942、12、10 死刑判決文一部)」

 李の判決にあるように患者の待遇が極めて悪かったことは言うまでもない事実である。院長周防正季の殺人に対して同宿していた証人の話を聞いてみると

 「二五歳で来た。村に。斷種手術しなければいけない。そうすれば結婚させてやると言われた。夫婦一緒に住める家も建ててやると。井戸を掘って、家を建てて、冬至に・・・院長(周防正委第四代院長)の銅像を建てなきゃならないんだが・・・院長の銅像を建てるために、金を差し出さなければいけないし、とにかく私たちが何もかも差し出さなければいけないと。・・・働いて、一日三銭。よけいに働く人は五銭、と言われたけれど全くくれなかった。・・・銅像を建てた(一九四○年八月)後は、夜明けの三時に銅像を拝めといわれた。・・・院長先生ありがとうございますと拜みにいかなければならなかった。・・・銅像参拝・・・神社参拝・・・それをしなければ賣國奴だ、反抗者だと言われた、この野郎、何故しないんだと言われたが、私はキリストヘ徒だからそんなことは出来ないと答えて監禁室に入れられて死んだ人々がたくさんいました」(金さんというひと 現在86才)。

 こうした背景を考えれば、この事件は、小鹿島ハンセン病患者たちに課せられた苦役にとうとう堪忍袋の緒が切れて李が犯した事件であった。この李の例からわかるように、金教臣の影響を受けた人々には急進派として行動した第2のタイプが見出せるのである。これを対して、先に述べたように 小鹿島の院生たちが相当の苦労をしていた時、金教臣の聖書朝鮮を通じてキリスト教の信仰を得られたのは事実である。信仰が有ったゆえ、園での生活に忍耐心を持って順応しながら生きることができたのであるが、しかし「聖書朝鮮」を通じて融合事業と皇民化政策に同調した人々が多かったことは、総督府の立場から高く評価された。現存している患者たちの証言によれば「聖書朝鮮」を通じて無教会信仰を得なかった者は院生活に適応できず、逃亡か自殺に至ったと推量される。
 おそらく金ヘ臣の「聖書朝鮮」の影響で無教会信者は忍耐心持って苦役も辛抱したのであった。金ヘ臣と信者との対話は155回におよんだ。これについて金教臣自身、無教会は小鹿島に花開いたと語っている 。
 現在から見ると急進的であった李春相の信仰は、非常に高く評価されている。現在李春相の追慕会が組織され、解放運動家として認めるように政府に対して署名運動が行われている。こうした点から見れば、金教臣の無教会キリスト教の社会正義の精神は、とくに急進的な人々においてはっきりと示されていると言えるだろう。


1近代思想研究会 『内村鑑三の言葉』、1977、207頁
2金丁煥 『金ヘ臣とムントウンア』、金教臣記念会刊、1998、30頁
3滝尾英二『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』、不二出版、2002、293頁
4金丁煥前掲書、30頁

                                                        

(きむ むんぎる・釜山外国語大学日本語学科教授/キリスト教学)

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《報告2》

教養における規範と「寛容性」

田中 紀行

【要旨】

T はじめに

 本報告では、現代先進社会における正統的「教養」の内容規定にかかわる規範の変容ないしゆらぎ―それがただちに「寛容性」を意味するものとはいえないにせよ―について、現状とこれまでの研究状況を次の2つの角度から検討したい。
 1つは、文化の消費と階層構造の再生産に関する最近の研究動向である。従来、ブルデューの文化的再生産論に見られるように、文化消費のパターンによって表される個人のライフスタイルとその出身階層の間に一定の対応関係が存在し、文化のジャンル間に存在する正統性のヒエラルヒーが階層構造の再生産を媒介する何らかの機能を果たしていることが想定されてきた。その際、正統性の高い文化(ハイカルチャー)はその享受のために特殊な文化資本を要する排他性の高いものであり、支配的階層はそれを自らの象徴的境界維持のために利用しているとされる。しかし近年はこうした文化のヒエラルヒーと階層構造の対応関係は流動化してきていることがさまざまな経験的研究から明らかになりつつある。そこには現代先進社会における文化的平準化と「教養」(ないしハイカルチャーの消費)の社会的意味の変化とともにエリートの文化戦略の変容(排他性から「寛容性」へ)が見出される。
もう1つはその正統的文化の具体的内容の定義に関する問題である。高等教育の大衆化と「教養主義の没落」(竹内、2003)やマルチカルチュラリズム・文化相対主義の浸透に伴って、かつては比較的明確であり社会的に共通の了解があったハイカルチャーと大衆文化の境界や「教養」の具体的指示内容(教養カノン)の不明確化と相対化が進む一方、教養の再定義への社会的需要は持続しており、これが「教養」の危機という形で語られている。

U ブルデューの文化資本論

 議論の出発点となるのはP. ブルデューが主著『ディスタンクシオン』(Bourdieu, 1979)などで展開している文化資本(capital culturel)論である。周知のようにそこでは「社会空間」(当該社会における社会的位置の布置)が各成員の保有する「資本」の量と構造(経済資本/文化資本の比率)を基準として構成され、この社会的位置空間とライフスタイル空間(文化消費パターンの布置)との間に相同性が見出される(同書では1950?60年代にフランスで行われた社会調査のデータをもとにそれが実証されている)。その際、各階級に対応した形で形成される「ハビトゥス」(性向の体系)が階層構造の再生産に寄与するものとして想定されている。さらに、知識人や芸術家といった文化エリートを含む「支配階級」が「正統的文化」の定義に関わるとともに、そこに排他的にアクセスすることによって他の階級から自らを区別する(「象徴的暴力」)とされる。

V ブルデュー以後の研究動向

 フランスの社会構造をベースにしたブルデュー理論は、フランス以外の社会での同種の実証研究を刺激するとともに、特に1990年代以降、そのフランス的特殊性(社会的地位達成における文化資本の重要性等に関して)や時代的制約(産業社会からポスト産業社会への転換)といった観点から批判を受けている。

(1)G. シュルツェの「体験社会」論

 大規模な社会調査にもとづいてブルデューに代わる文化消費と社会構造の関係についての体系的理論を提示した代表的な試みがG. シュルツェの『体験社会』(Schulze, 1992)である。これは80年代半ばのドイツ社会を基盤として展開されたものであり、現代社会において支配的な行為志向が「外部志向」から「内部(体験)志向」へ変わってきているという前提から、主に「スタイル」・年齢・学歴の3要因によって社会的「ミリュー」が形成されるというモデルを提示している。そこでは出身階層とライフスタイルの間の一義的な対応関係が否定されるとともに、ブルデューにおいて前面に押し出されていた階級間の区別への志向が相対化されている。

(2)R. A. ピーターソンらの「文化的オムニヴォア」論

 近年R. ピーターソンら(Peterson, 1993など)によって提唱されている「文化的雑食性」(cultural omnivore)論は、「文化的排他性仮説」に「文化的オムニヴォア仮説」を対置したものであり、後者によると現代の上流階層において正統的文化(ハイカルチャー)のみならず大衆文化を排除しない幅広い文化消費のパターンが広がりつつある(ただし全面的寛容ではなく、大衆文化の一定の要素は依然排除の対象となる)。これは現代のエリートに求められる政治的寛容性が文化的次元にまで拡大された結果と解釈されている。これはアメリカにおける調査結果にもとづくものだが、日本やドイツにおいてもこの仮説の検証が試みられている(日本のケースについては片岡、2000)。

W 教養カノンの崩壊と再編成

 正統的文化の定義にかかわる規範の拘束力の低下は、上述のような階層的基盤との結びつきの弛緩を背景として、「教養カノン(Bildungskanon)」(文学的カノンを哲学・歴史・音楽・美術など学校教育の対象となる全ての文化領域に拡張したもの)の崩壊ないし相対化という形で現れている(Fuhrmann, 2004)。他方、A. ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』(Bloom, 1987)やD. シュヴァニッツの『教養』(Schwanitz, 1999)などに見られるように、欧米では80年代以降教養の危機と教養カノンの再構築の必要性を説く言説が一定の社会的支持を得ており、これらの本がそれぞれアメリカ、ドイツで出版後ベストセラーになっていることからも、教養カノンへの社会的需要が依然として存在することがうかがえる。

X 日本における教養主義とカノン形成

 近代日本の場合、正統的文化の定義に与って影響力の大きかったのは、学歴エリートのサブカルチャーとしての「教養主義」であった。教養主義を支える基本的出版形態(文庫、全集、読書案内等)が昭和戦前期に確立し、戦後も長い間これらが実質的に教養カノンとして機能してきたと考えられる。国民文化形成の一環としての国民的カノン形成の一方で西洋的教養カノンが受容され、後者は主としてこれらの活字メディアを通して浸透した。日本でも近年、「教養の危機」に関する言説とカノン再構築の試みが見られるのは、社会的背景は異なるにせよ欧米と同様である。なお、日本の場合の特殊性として、教養主義のもつ無節操な雑食的性格(唐木順三)、さらには日本思想の「無構造の伝統」(丸山真男)といったものがもしあるとすれば、日本ではもともと正統的文化ないし教養の内容規定に関して「寛容」な伝統があったといえなくもない。この点はあらためて検討してみたい。

【主要参考文献】

Bloom, Allan, 1987: The Closing of the American Mind. New York: Simon and Schuster(=菅野盾樹訳『アメリカン・マインドの終焉??文化と教育の危機』みすず書房、1988年)
Bourdieu, Pierre, 1979: La distinction. Critique sociale du jugement. Paris: ?ditions de Minuit. (=石井洋二郎訳『ディスタンクシオン: 社会的判断力批判』1・2、藤原書店、1990年)
Fuhrmann, Manfred, 2004: Der europ?ische Bildungskanon. Frankfurt a. M./Leipzig: Insel Verlag.
片岡栄美、2000:「文化的寛容性と象徴的境界」今田高俊編『日本の階層システム5 社会階層のポストモダン』東京大学出版会
Peterson, Richard A., 1993: “Understanding audience segmentation: From elite and mass to omnivore and univore,” Poetics 21.
--------, and Kern, Roger A., 1996: “Changing Highbrow Taste: From Snob to Omnivore,” American Sociological Review 61-5.
Schulze, Gerhard, 1992: Die Erlebnisgesellschaft: Kultursoziologie der Gegenwart. Frankfurt a. M.:Campus.
Schwanitz, Dietrich, 1999: Bildung. Alles, was man wissen muss. Frankfurt a. M.: Eichborn.
竹内洋、2003:『教養主義の没落??変わりゆくエリート学生文化』中公新書

(たなか のりゆき・京都大学大学院文学研究科助教授/社会学)

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■次回研究会の予定

◇第14回研究会

【日時】
  2005年7月9日(土)13:30−16:30

【場所】
  京都大学文学部新館5階社会学共同研究室

【報告1】
  報告者:岩野 裕介氏(京都大学大学院文学研究科 博士課程)
  題 目:日本キリスト者における宗教的寛容の問題の一例――内村鑑三の場合

【報告2】
  報告者:水野 英莉(京都大学大学院文学研究科COE研究員)
  題 目:公共性とスポーツ実践――日米サーフィン共同体の比較から


編集後記

 Newsletter No.12をお届けします。年度始めでご多忙中の折にも関わらず、多数のご出席、および本紙へのご寄稿をいただきましてありがとうございます。今年度も本研究プロジェクトへのご協力を、どうぞよろしくお願い申し上げます。
なお、5月より事務局員は交代となりました。前事務局員の野村さん、本当にお疲れさまでした。ありがとうございます。引き続き、みなさまのご指導のほどどうぞよろしくお願い申し上げます。

(水野 記)


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