21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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Newsletter No.13

2005/8/8

contents


■活動状況

 第14回研究会

日 時:2005年7月9日(土)

《報告1》

日本キリスト者における宗教的寛容の問題の一例

ー内村鑑三の場合ー

岩野 祐介

【要旨】

序 日本キリスト教の状況と宗教的寛容

 現代の日本キリスト教が多元的宗教状況の中で社会といかに関わっていくべきか、ということを考える上で、同じ問題に関する明治日本キリスト者たちの態度は、大きな手掛かりとなり得る。 日本にキリスト教が受容されたのは、日本の近代化に役立つかぎりにおいてのみであり、それに合わない部分については攻撃あるいは黙殺されてきたようなところがある。そのような状況下、日本キリスト教が文化的、教養的な面を強調し生き残りをはかったことはある種仕方のないことであったかもしれない。しかし内村鑑三は、単なる近代化の精神ではないまさに宗教としてのキリスト教を真剣に探求した人物なのである。

1. 内村鑑三は寛容な人物か

 一般的なイメージとしては、内村は決して「寛容」な人物であるとは思われていないのではないだろうか。例えば亀井勝一郎は、内村の非寛容さに魅力を感じると述べる。また遠藤周作は、『芸術は多くの場合において信仰の妨害者である』とはっきり言う内村を、うらやましいと思いながら同時に抵抗するのだ、と言っている。
 このように、非寛容、断定的、頑固といったところに内村の性格的特質があることは間違いなさそうである。そしてこの頑固さの土台にあるもの、この頑固さをさらに強化しているものこそが、彼の信仰なのではないだろうか。
 そもそもキリスト教信仰の土台にあるのは「罪のゆるし」であり、「ゆるし」とはまさに寛容の精神である。その意味においては内村もキリスト教的な寛容の精神を求めている。ただし内村によれば、寛容さとは自らが努力して獲得できるようなものではない。人が寛容であるためには、まず救済され内的に充たされるという体験をする必要がある、と彼は考えていたのである。
 その一方で、内村には寛容を求める態度とは一見矛盾して見えるような、厳密で非寛容な部分がある。これについて、直接寛容という言葉を用いてはいないが、内村は「…真の愛に怒りが伴ふ、怒らざるは偽りの愛にあらざれば浅き愛である。神が屡々その民を怒り給ふは彼が深く強く彼等を愛し給ふからである。」と述べている。
 つまり、内村における寛容さとは、基本的に許せることに関しては許すということ、そして許せない部分については、それを無闇に拡大しようとはしない一方、安直に縮小しようともしない、ということになるのではないだろうか。そこには、どこまでが寛容な態度で臨める範囲なのか、という判断が伴うはずである。それを曖昧にしたまま、何でも構わず受け入れ容認するというのであれば、それは無節操あるいは無思慮であり、寛容とは異なるものではないだろうか。内村の場合、許せないという判断が信仰に基づいて下されているため、その強度が極めて強く揺るぎがないということになると考えられるのである。

2. 他宗教に対する内村の態度

 内村は仏教に対しても一定の理解を示しており、決して排他的であったわけではない。他宗教に対する基本的態度は、相互に理解した上で違いは違いとして明らかにせよ、というものである。他宗教を信徒獲得の上でのライバルのように考えてはいなかった。他宗教に対しては、概して寛容であると言ってもよいであろう。この寛容さの根源は、神の無限性、絶対性に対する人間の有限性、相対性の意識にあるように思われる。内村によれば、真理は終末的な神の裁きにより明らかになる。最終決定を全て神に委ねる以上、人間どうしの間で他宗教と勝ち負けを云々するのは無益なことであるということになるだろう。
 このように、全てを神に委ねるという考え方をもつ内村は、人間が人間を越えるものを憧れ求めることに関しては、キリスト教の枠を越えた理解を示しており、仏教の中でも浄土系仏教者の信仰を積極的に評価している。その回心体験において自らのエゴと深刻に向き合わざるを得なかった内村にとって、自己の無力を強調する浄土系の信仰は特に強く共感できるものだったのである。
 ただし内村は「神によりたのむ」ということを、「他力とは云へ、自己の外に働く他力ではない。『汝等の衷に働き』といひて、衷に働く他力である。即ち自力となりて働く他力である。聖書の言を以て云へば、聖霊である」と言い、仏教的「他力」と区別している。また仏教は慈悲のみであるが、キリスト教には愛と義の両方があることを挙げ、はっきりと自らはキリスト教を選ぶことを表明している。この愛だけではなく同時に義も必要であるいう観点は、日本の伝統的な精神性に対する内村の態度において、はっきりとあらわれてくることになる。

3. 文化、文学に対する内村の態度

 宗教的でない世俗的なものに対する態度は、内村の非寛容ぶりが著しく現れる部分である。とはいえ極端に言えば、内村とって宗教と無関係な問題などはない。彼はあらゆることに関して、そこに宗教的な意味を見出そうとするからである。第1次世界大戦という政治的・外交的な問題に対して、再臨運動という宗教的な行動によって向き合ったことなどからもそれは明らかであろう。ここでは特に、演劇を含む文学に対する内村の拒否感について検討してみたい。

  「…余にとりては小説は虚偽であるから面白くない、…」
「…純潔なる基督的家庭に於て青年に対する二個の禁物がある、其一は観劇である、…其二は小説である、…劇といひ小説といひ其中に稀に偉大にして善美なるものありと雖も畢竟するにそのnet result(勘定し上げたる結果)は十誡第七条の罪への誘導である、…」

 そもそも内村には、芸術全般に関するある種の警戒心がある。芸術は自己目的化し得るものでありそれゆえ信仰と相容れない要素が芸術にはある、と内村は考えていた。内村においては、「全ては神のため」だからである。
 またフィクションであるということ自体に対する拒否反応もあることは確かである。もちろんフィクションには時に過酷な現実を忘れさせ、それに立ち向かうための慰めと活力を読者・観客に与えてくれる力があるのは確かではあるだろう。それゆえ、内村の主張はあまりにも極端で、的外れなところがあるとも言える。
 注目すべきは、十誡第七条、すなわち「汝姦淫するなかれ」にからめて小説、観劇を禁じていることである。内村は喩えフィクションの中であっても、非倫理的行為を容認すべきではないと考えているのである。内村がここまで姦淫ということを深刻に考えるのは、端的に言えば姦淫は家庭、「ホーム」の破壊に繋がるからである。内村にとって家庭とは、そこに神が宿る神聖なものである。ゆえに、その破壊の「誘導」となる可能性があるというだけで、観劇、小説の全てを禁止するような過敏とも思われる反応を示すのである。
 さらに、これら小説、演劇等の背景に存在していた「情」を重んずる精神性に対して、内村が批判的であったということも指摘できる。義とは正義であり、それは善悪の判断基準である。しかし情だけで義がない人間は正しい判断ができず、複数の情の間で引き裂かれることにもなりかねない。義というものにもまた人を縛り抑圧しかねない要素があるのは確かである。しかしそのような義はいわば人間どうしの相対的な義であって、内村が求めた神に対する絶対的な義ではないのである。
 加えて、日本における文学者の伝統的なあり方それ自体に対しても内村は厳しい目を向けている。内村によれば、文学とは本来「この社会、この国を改良しよう、この世界の敵なる悪魔を平らげよう」との目的を持って戦うための手段である。しかし日本における文学とは「怠け書生の一つの玩具」、「たいそう風流」で貴族的なものでしかなかった、と内村は言うのである。
 「観劇、小説は禁物である」と内村が言うとき意味されていることは、それらがキリスト者としての生活の根本を揺さぶるような、大変危険なものであるということである。信仰の維持とはそこまでしなければならないほど困難なものであり、また信仰とはそれだけの価値があるものであるということなのであろう。
 但しその上で、一人の信仰者にとって、何が本当に信仰の妨げとなる危険なものか、ということを、師弟的人間関係における禁止としてしか表現できなかった点は内村の欠点でありまた限界でもあったと言える。それは本来、各個信徒が自ら見出さねばならない性質のものである。内村はキリスト教を個人の信仰であると言ったのであるから、何かを断定的に禁止するようなことをすべきではなかったのではないか。

4. 結びに代えて

 このような内村の態度を、文化的理解に欠けるとして批判するのは簡単である。しかし文化的かどうかということも単に一つの価値観に過ぎない。ある宗教を真正面から信仰しようとした時に、周囲の文化とある程度の軋轢が生じることは無理のないことである。内村は彼の全存在をかけて、宗教的なあり方を選択したのである。それは決して容易な道ではなく、故に彼はその妨げ、誘惑となり得るもの全てに対して非常に強く警戒していたのであった。
 内村に言わせれば、何故天皇崇拝とは戦いながら、文化芸術崇拝や科学技術崇拝、あるいは金銭崇拝とは戦わないのか、ということになるのではないであろうか。その打出し方には確かに断定的・独善的な面があるものの、信仰の本質ということを考える上で内村の言葉には依然として看過できない重みがあるように思われるのである。


                                                        

(いわの ゆうすけ・京都大学大学院文学研究科博士課程/キリスト教学)

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《報告2》

公共性とスポーツ実践

ー日米サーフィン共同体の比較からー

水野 英莉

【要旨】

T はじめに

 近代スポーツは、その誕生より、階級・人種・性などさまざまな立場や価値をめぐる対立が顕在化するフィールドであった。同時に他方では、かつてはアマチュアリズムをめぐって、現在ではスポーツ・フォー・オールという理念のもとに、スポーツの公共性・寛容性はいかにして可能かが盛んに議論されてきた。本報告ではスポーツ実践が新しい公共性を創出していく過程や寛容性の社会的条件を、日米のサーフィン共同体を事例に考察するのが目的であり、特にジェンダーに関わる寛容性について検討したい。

U サーフィンという実践

 サーフィンは、広義には波に乗ることを意味するが、ここではサーフボードなどの用具を用いて波に乗ることと狭義にとらえておく。近代以前のサーフィンはもともとハワイをはじめとするミクロネシアの国々で、宗教儀礼や階級システムの一部として、あるいは漁の手段や娯楽として行なわれていたという。19世紀に欧米のキリスト教宣教師によって一時禁止されるが、20世紀初頭に近代サーフィンとして復活し、現在に至る。サーフィンという実践を特徴付けるのは、まずアメリカ大衆文化であるという点にある。すなわち、非エリート的、非アマチュアリズム(大規模なプロ化)、そして大衆の熱狂を誘う個人の活躍が目立ち、イギリスを起源とするヨーロッパ・スポーツと大きく異なる。それに加えてサーフィンの場合、1960年代の対抗文化的要素をたぶんに含み、排他性を有している。また、「波」という不安定なフィールドで行なう実践である、一本の波には一人しか乗ることはできないなどの事情から、極端に限定された資源を必要とする特性がある。この特性はすなわち、非常に貴重な資源をいかにして異なる立場の人々が共有しうるのか、あるいはしえないのか、そこで生まれる新しいルールとはどのようなものかを知るのに適しているということも意味する。
 日本に近代サーフィンが輸入されたのは60年代といわれており、グローバル化の文化・経済的拠点は米国のカリフォルニア州である。関連企業・組織もカリフォルニア南部に集中しており、世界レベルのコンテストで活躍する選手の出身国も圧倒的に米国本土およびハワイ(一部豪州)に集中している。よって文化内部には全体として、米国の健康な白人中産階級の男性を頂点としたヒエラルキーが存在する。

V 不寛容の諸相1(性差別)

 近年の研究により、近代社会はこれまで以上に男女の性差が区別・強調され、なかでもスポーツは「男らしさ」の鍛錬および提示の場としての機能を担ってきたことが明らかになっている。サーフィンも例外ではなく、「男性優位」によって成り立ち、一般社会よりも強力に性差別が行なわれる場である。

(1)スポーツ文化の「男性原理」、「男らしさ」の表現

 コンネルによれば、男らしさとは、何か実体のあるものではなく、個々の状況によって多様に現れるもので、自らより下位の他者に対して常に支配的な「ヘゲモニックな男性性」である。サーファーの共同体でこの「男らしさ」は、@ホモソーシャリティ(女の排除)、Aホモフォビア(男らしくないものの禁止)、B他者からの承認(女の所有、賞賛者の確保)、C「男のメンツ」を守るプレッシャー(能力以上の行動、弱さの隠蔽など)として表出されており、スポーツ文化と「男らしさ」との密接な結びつきが見られる。

(2)日常的スポーツ現場での女性差別と排除

 ではこのようなサーフィン文化の内部でサーフィンをする一般女性たちは、日常的にどのような経験をするのであろうか。一般的にスポーツのジェンダー研究ではナショナル・スポーツや教育現場における問題を論じることが多く、これらの点についてはほとんど着手してきていない。女性排除と差別の実践は、以下のような点に見られた。たとえば、男女の間で社会的資源(ネットワーク、自立手段など)が不平等に配分されている、少数派である女性同士がさまざまな理由により連帯できない、過剰な親切やセクシャルハラスメントなどを受けやすく男性とも人間関係を築くのが困難、サーフィン文化の核心部分である「欲望と快楽の追求」は女性に寛容でない、などである。このように、サーフィン文化が性差別に熱心なのは、サーファーの多くが「ブルーカラーの若者」で所有する資源が少なく、唯一味わえる特権が「女にもてること」であるからだ。「女」は彼らにとって確保しなければならない他者であると同時に、資源を奪い合う敵でもある。

(3)女性サーファーの「居場所確保の戦略」

 上述のように、「露骨な」女性排除を行なうサーフィン共同体においても、サーフィンをしたいと希望する女性は多く存在する。女性排除を明文化しないスポーツでも、現代においてはもはや女性の参入をとどめることができない。では彼女たちはいかにして自らの居場所を確保するのだろうか。その方法は、端的に言うならば、マジョリティ(男性)の作法を模倣することによってである。つまり、男性が他者に対してする意味づけや序列化の実践を真似て、自らの正統なメンバーシップを主張するやり方である。時に女性サーファーが「悪意に満ちた」語り方で他者を表現するのは、このような理由による。この「戦略」は根底から何かを変革する方法ではないが、彼女たちがこの戦略に頼らざるを得ないほど、不平等な社会構造が存在するのである。

W 不寛容の諸相2(ローカリズム=ローカル優先主義)

 日本のサーフィン共同体に近年顕著に見られる傾向は、単にジェンダーをめぐる対立よりむしろ、ローカリティをめぐるものに変容しつつある。ここでいうローカリティはサーフィンをする海辺の地域に基づくもので、それと波に乗る優先権と結びついたのがローカリズムである。ローカルとは、その土地で生まれ育ったサーファー、また長い年月その場所に通うサーファーがそれに相当する。ローカリズムの表示は、ローカル以外そのポイントでサーフィンさせない、ローカルに有利な状況を作り出すなどで、寛容の度合いにはさまざまなレベルがある。それに応じて非ローカルのサーファーも、ローカリズムとの折り合い方を模索している。ローカリズムは、サーフィンをしない地域住民と都会から来るサーファーの橋渡しや、ルール・マナーの伝承、安全確保など、一定の機能も果たすが、他方では自己中心的に波を独占したいときの手段としても利用される一面がある。ローカリズムに疎外される者を見てみると、やはりここでもヒエラルキーのより下位に位置する女性は不利な立場にならざるを得ないことが明らかである。日本より先にサーフ人口の増加の問題に直面した米国では、どう対処してきたのだろうか。
移住した日本人女性サーファーに対するインタビューによると、全員が口をそろえて「女の子はアメリカのほうがサーフィンしやすい」と答えていた。確かに米国のほうが女子選手の活躍の場が整えられており、10代女子のサーファー人口が圧倒的に多い。予測の域を出ないが、公共性に関する意識の違い(「弱者」の保護)や、社会的資源の圧倒的格差、海や土地をめぐる所有意識の差異、海辺の地域住民の階層差など、日本と米国の文化・歴史・経済的な差異を背景にしていることが考えられる。


X 公共性の現状、寛容性の実践

 サーファー共同体ではここ10年の間に、性・年齢・国籍に対する寛容性を飛躍的に高めたが、他方ではローカリズムの出現によって新たな非寛容性を出現させてもいる。同じくここ10年の間に飛躍的な変化を遂げたのは、インターネットサイトをはじめとするサーファーの公共圏の大量出現という点である。世界的な傾向としてサーファー人口は増加する一方であり、ローカリズムをめぐる対立や調整は、ますます重要な問題として立ち現れてくることが予想される。サーファー公共圏における彼らの動向に注目しながら、議論を深めていきたい。

【主要参考文献】

Connell, R. W. 1995. Masculinities, Polity Press.
―――― 1993 森重雄訳 『ジェンダーと権力』 三交社
江原由美子 2001 『ジェンダー秩序』 頸草書房
伊藤公雄 1998 「<男らしさ>と近代スポーツ──ジェンダー論の視点から」 『変容する現代社会とスポーツ』 日本スポーツ社会学会編 世界思想社
水野英莉 2002 「スポーツと下位文化についての一考察――X・サーフ・ショップにみられる『男性文化』――」 『京都社会学年報 第10号』
―――― 2005a 「スポーツする日常における性差別――サーファー・コミュニティのフィールドワークから」 好井裕明編 『繋がりと排除の現象学』 明石書店
―――― 2005b 「女性サーファーをめぐる『スポーツ経験とジェンダー』の一考察――『男性占有』の領域における居場所の確保」 『ソシオロジ』154号
Permanent Publishing. 2004 Oct. The Surfer’s Path.
セジウィック、イブ 2001 『男同士の絆――イギリス文学とホモソーシャルな欲望』 名古屋大学出版会
多木浩二 2003 『スポーツを考える――身体・資本・ナショナリズム』 ちくま新書
Young, Nat 1983. The History of Surfing: revised edition, Palm Beach Press.
―――― 2000. SURF RAGE, Nymboida Press.


(みずの えり・京都大学大学院文学研究科研究員(COE)/社会学)

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■次回研究会の予定

◇第15回研究会

【日時】
  2005年10月1日(土)13:30−16:30

【場所】
  京都大学文学部新館5階社会学共同研究室

【報告1】
  報告者:佐々 充昭氏(立命館大学文学部助教授)
  題 目:「宗教的多元性」の観点からみた現代韓国ウェルビーング・ブームの分析

【報告2】
  報告者:寺岡 伸悟氏(奈良女子大学文学部助教授)
  題 目:街・うわさ・友達 ―テリトリー・マシンとしての携帯―(予定)

編集後記

 Newsletter No.13をお届けします。ご多忙中の折にも関わらず、第14回研究会へのご出席、および本紙へのご寄稿をいただきまして、ありがとうございます。今後とも引き続き、本研究会へのご支援・ご協力を賜りますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。

(水野 記)


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