21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
top 趣旨 メンバー 研究会案内 関連企画 Newsletter COE top

Newsletter No.15

2005/8/8

contents


■活動状況

 第16回研究会

日 時:2005年12月3日(土)

《報告1》

中国におけるキリスト教

徐 亦猛

【要旨】

T、はじめに

中国長い歴史において、伝統的に確立した地位を占めた宗教は三つである。儒教の学説はずっと正統な宗教と公認されてきた。道教と仏教は正統ではないが、政府はある程度まで受容してきた。例えば、仏教はすでに早い時期中国上流社会、知識界と芸術生活の主流に入り込んだが、一旦社会と政治上の脅威になると政府が認めた場合は、随時禁止されてきた。儒教、道教、仏教、この三つ以外の宗教は伝統上に非合法的な邪教と見なされた。宗教は国家利益に害を与え、禁止すべきだと考えられた。しかしキリスト教は例外である。中国におけるキリスト教の歴史を見ると、キリスト教は道教、仏教と同じ状況に直面したが、道教と仏教のように中国社会にきっちりした基盤を作ることができなかった。ところが、きっちりした基盤がないにもかかわらず、キリスト教が中国の社会に対した影響は軽視することができない。この発表において、中国におけるキリスト教の歴史を顧み、これから中国のキリスト教の発展を探りたい。

U、中国におけるキリスト教の歴史

(一)古代・中世

キリスト教が最初に中国に伝えられたのは唐朝である。ネストリウス派は中国において景教と呼ばれる。景教が唐朝太宗皇帝から公認され、長安に波斯寺(大秦寺)を建造するにいたった。景教は200年ほどの間、活動を行っていたが、その後中国の歴史から姿を消してしまった。1625年西安で発見された大秦景教流行中国石碑は、唯一当時の状況を記録したものである。カトリックの中国伝道は元朝から始まった。元朝の中国で、本格的なカトリック伝道を行ったのはフランシスコ派のモンテ・コルビーノが最初である。彼は1294年大都(北京)に到着し、この地で伝道すること約30年にわたり、辛苦の末、カトリック伝道の基礎を築いた。しかし1368年における元朝の滅亡は、この発展的な気運を中断してしまった。明朝において、イエズス会に属する多くの宣教師が中国伝道に来た。彼らは西洋の優れた学問を中国に持ち込み、中国社会から大きく歓迎された。当時特に有名なイエズス会の宣教師はマテオ・リッチである。彼は中国知識人に対する布教を重視し、その結果彼自身も明朝皇帝や知識人の信頼を得た。明朝政府はキリスト教を承認した。中国の知識人と明朝の高官の中にも入信者が現れるようになった。明朝が滅亡後、清朝も明朝と同様にヨーロッパの学術に重大な関心を持ち、キリスト教信仰を容認した。しかし18世紀初期、清朝聖祖皇帝康熙は「典礼問題」で教皇クレメンス十一世と衝突した。つまり従来イエズス会宣教師の認めた中国信徒の祖先祭祀を、ローマ教皇は認めなかったのである。1723年清朝世宗皇帝雍正はキリスト教を非合法的な宗教と宣言し、禁止の命令を下した。1723年から1842年まで、中国キリスト教は再び禁教時代に入った。このような状況の下で、最初のプロテスタント宣教師馬礼?(Robert Morrison)は1807年に中国に到着した。

アヘン戦争(1839年ー1842年)によって情勢が急激に変化した。アヘン戦争において清朝が完全に敗北し、結局清朝政府は西洋列強とやむを得ず不平等条約を結んだ。「中英南京条約」(1842年)で、外国人に通商する港で教会を建築する権利を与えた。さらに1858年「天津条約」を結ぶ時、交渉中に通訳を担当した西洋の宣教師が宣教師に中国内地で土地を購入することを認める条項を加えた。1860年以後中国で宣教活動は非常に盛んであった。各国と中国の間で結ばれた不平等条約は、領事裁判権という特権を含んでいた。そういう理由でキリスト教が中国政府から受容された洋教となり、同時に中国政府からの監督を受けなかった。その状態は1945年不平等条約が廃止されるまで続いた。

不平等条約の保護を受けていた宣教師の布教活動に対して、中国国民から大きな抵抗があった。国民の間に、反キリスト教、反宣教師の意識が非常に高まった。1860年から1899年まで宣教師と中国信徒に対する攻撃事件は240件であった。その中55件は1860年から1870年までに起った。

(二)近代

1900年以後、キリスト教は中国において短い高度発展時期を迎えた。1911年辛亥革命が成功し、中華民国が成立した。当時の憲法規定によると、人民には信仰の自由が認められている。1900年から1910年まで、大量の宣教師が中国に着いた。その中の多くは北アメリカの学生海外宣教運動(Student Volunteer Movement)から派遣された宣教師であった。信徒と教会も大きく成長し、キリスト教青年会の会員数も倍増した。中国にとって、新しい時代が来るような予感があった。つまり進歩、繁栄、民主と改革の時代がまもなく来臨するという実感である。宣教師たちも、これからキリスト教徒が中国社会に多大な影響を与えると信じた。しかし、袁世凱が革命を裏切ったことによって、状況は一変した。中国は再び封建社会に戻ってしまったかのようであった。袁世凱が大統領になると、孫文などの革新勢力を弾圧して独裁性を樹立し、民主共和は名ばかりとなり、軍閥の混戦が続いた。袁世凱は1913年5国借款団より2500万ポンドを借款するなど、帝国主義勢力と結んで中国の主権を危うくし、さらに1915年袁世凱は日本による中国に対する『二十一ヶ条』不平等条約を受け入れた。中国知識人は大変失望し、怒りが極点に達した。このような背景のもとで、中国の知識界はキリスト教に対して疑問を感じ、完全な救国論理を探し始めたのである。

丁度その時1922年4月、北京郊外の清華大学において「世界基督教学生同盟」大会が開かれ、その大会を契機として全国的規模の反キリスト教運動が起った。反キリスト教運動は、中国共産党が成立後帝国主義に反対する最初の組織ある民衆運動であった。反キリスト教運動は、中国のキリスト者が自国を愛していないと非難したが、この非難が実は中国教会の本色化運動を展開する動力となったと言える。そのような情勢の下に、中国キリスト教知識人が立ち上り、反キリスト教運動からの非難に対抗して、キリスト教本色化運動を起こしたのである。当時の社会情勢において、キリスト教知識人たちは、キリスト教が国家再建のために、具体的に貢献できる可能性を模索していた。つまり、これまで見たような批判を受け、「洋教」と呼ばれるキリスト教が、どのようにして中国文化との関連を見出すことができるのか。結局本色化運動の指導者たちは、中国文化とキリスト教を深く関連づけることによって、キリスト教を中国化しようと試みたのである。

(三)中華人民共和国成立後キリスト教の動き

1949年中華人民共和国成立以後、キリスト教会おいて「三自運動」(三自というのは自治〔自分で教会を管理運営する〕、自養〔自分の力で教会を養う〕、自伝〔自分で福音を宣べ伝える〕である)が起こった。1950年中国基督教協進会の主席呉耀宗が中心となって、新しい時代のキリスト教会の方針を明らかにするための宣言文草案を作り、宣言文草案を提示して周恩来の意見を求めた。その後この草案を多数のキリスト教指導者提示したところ多くの批判が寄せられ、それに基づいて訂正した草案を再び周恩来に提出し、認可を得て同年7月に公表した。これが有名な「中国基督教会宣言」または「革新宣言」と言われているものである。「三自運動」組織は人民団体として、政府の指導のもとに革命と建設に協力するわけである。政府の監督の下にいろいろな活動をおこなった。

現代の中国教会は超教派の時代にある。諸教派は信仰面と礼拝面において相互尊重し合い、教会の一致と多様性を保っている。中国教会の牧会と管理運営は、1980年設立された中国キリスト教協会が中国キリスト教三自愛国運動委員会と共に行っている。

 文化大革命(1966年―1976年)が終わり、1979年以来、中国のキリスト教会は復興され、教会と信徒の数も大きく増加した。中国全土で開放された約13000の教会堂のうち、その70%が新しい建てられたものである。信徒の数は約1千3百万人である。

 文化大革命の影響で、中国教会では伝道者が大変不足している。その状況を改善するために、全国両会は神学教育に力を注いでいる。1981年以降、中国全土で18の神学校と聖書学校が設立され、1998年までに3100名ほどの神学生が卒業した。

 1987年聨合聖書公会との合弁会社―南京愛徳印刷有限会社が設立された。1999年までに2千3百万冊の聖書が印刷刊行された。中国キリスト教協会は全国65ヵ所に聖書発行拠点を設立し、また1千万冊の新編賛美歌を出版刊行した。この新編賛美歌には400曲が収録されているが、その4分の1は中国信徒が創作した曲である。

 中国教会が発展する一方、現代の中国において「文化クリスチャン」という特殊な社会現象が存在している。中国大陸における文化クリスチャン」の中には、公にキリスト教思想文化を認めるだけではなく、キリスト教信仰も認める人々も存在する。しかし、彼らは教会の礼拝や活動に全く参加しない。もちろん、それには色々な理由があると思われる。一面において、中国の政治的環境からの影響もある。もう一面において、彼らはキリスト教や西欧についての研究から出発し、それらに一定の価値を認めるという段階を経て、さらにキリスト教信仰を得るという道を辿ったからである。その道は思想文化的また哲学的な神学によって完成したのである。その中には教会からの影響が全くない。その意味で文化クリスチャンは伝統的クリスチャンと明らかに区別される。文化クリスチャンが重視するのは聖書研究ではなく、神学的反省である。彼らにとって聖餐や洗礼や教会集会は単なる儀式に過ぎず、特別な意味はない。文化クリスチャンに対する社会からの評価もかなり異なっている。教会内の人たちの評価によると、文化クリスチャンはキリスト教信仰に対する認識が不十分であり、彼らは神学理論を熱愛するが、神を愛するとは限らないし、さらに神は彼らの研究思考の対象であり、礼拝や祈祷の対象ではない。しかし文化クリスチャンによるキリスト教神学研究および体験を通して、中国キリスト教発展が促進されたと多くの人は評価している。


V、結論

21世紀においても、疑いなく、中国のキリスト教会は必ず発展すると確信している。しかし、宗教政策の開放と発展に伴って、中国教会は様々な問題とチャレンジに直面している。新しい教会堂を建築する資金や正規神学教育を受けた伝道者の不足をいかに解決するのか、またキリスト教信仰によって如何に社会に応答するのか、信教の自由がどのように実現されるのか、教会として、如何に本来聖書の教えを基礎として、あらゆる面において社会の諸団体・地域・行政との緊密な関係を構築し、社会に貢献するのかなどの問題である。それは21世紀において、中国教会が自分の力で乗り越えなければならない課題である。


(じょ いもん・関西学院大学神学研究科博士課程/キリスト教学)

[このページの先頭に戻る]


《報告2》

フィリピン社会と宗教

ー比喩形象と公共性、もしくは『キリスト受難史と革命』翻訳をとおしてー

川田 牧人

【要旨】

1.はじめに
 

レイナルド・イレート著『キリスト受難詩と革命』は、1840年代の聖ヨセフ兄弟会から1910年代の聖教会にいたる、フィリピン革命期のさまざまな民衆運動を民衆自身の認識の枠組にもとづいて「底辺から」の歴史叙述をおこなったフィリピン研究の古典的名著である。この邦訳に携わった経験から、報告者が現在取り組むフィリピンの宗教・社会研究の課題と関連づけて考えてみたい。原著から学ぶことは非常に多岐にわたるが、発表では比喩形象という理解のあり方と、bayan(国家、祖国)の概念から得られる展望についてとりあげたい。

従来のフィリピン革命研究においては、19世紀、国際港湾としてのマニラの「開港」によって外国貿易や資本投資がさかんになり、その結果、台頭した地方有力者層(プリンシパーリア)が子弟をヨーロッパなどへ留学させたことが、有産知識階層(イルストラード)の形成や西洋自由啓蒙思想の流入を引き起こし、革命思想を啓蒙宣伝するプロパガンダ運動が起こったことを重視する考え方が有力であった。これに対しイレートは、「パション(キリスト受難詩)」が、植民地体制の秩序を維持する機能があると同時に、それとはまったく逆にみずからの価値観、理想、解放の希望などを表現する“言語”をもたらした点に着目し、聖週間を中心とした民衆の宗教経験、とりわけキリストの受難・死・復活の物語が彼らの抵抗運動の概念枠組を形づくっていった様態を民衆の詩歌や詠唱、民間文学などから読み解いていく。本書では、「お守り(anting-anting)」=魔よけ、呪力を発揮するお守り、「内心(loob)」=人間の心の内面、奥深い精神状態、「共感(damay)」=他者の経験への参入、「行脚(lakaran)」=革命運動の萌芽的過程に関わる身体運動としての巡礼、「自由/独立(kalayaan)」=厳しい親の管理の手を逃れること、といったさまざまな基本概念が重層的に交錯しながら、革命に参加した民衆の精神構造や心性が生成され、諸運動への参加実践が深化していった様態が描かれている。

本書の中心的課題のひとつは、著者イレート自身によれば、「大衆の聖週間の経験が、スペイン植民地時代と初期アメリカ植民地時代における農民層の兄弟愛や蜂起の様式を根本的に形づくった」[イレート 2005:22]ということである。聖週間における個人的宗教体験がより広い社会劇に適合され、キリストの受難への「共感」が、困難であった革命運動への主体的参入をもたらしたのである。イレートはこの視角を、エーリッヒ・アウエルバッハの「比喩形象性」からヒントを得ながら開拓した。すなわち、「甲乙二つの事件あるいは人物の間の関係を定め、甲はそれ自身のみならず乙を意味し、また乙は甲を包含する解釈であって、一つの比喩形象の甲乙二つの両極は時間的には離れているけれども、両者とも現実の事件または人物として時間の内部に存在している」[アウエルバッハ1994:上134]と規定される比喩形象的解釈は、フィリピン革命期の民衆運動に繰り返しあらわれるキリストの受難物語への主体的参入にも適用可能なものであった。 

比喩形象的理解には、時間的離切、意味の複数性、非因果論的関係、超越者の存在といった諸点を指摘することができるが、報告者はこれをさらに、現在取り組んでいる東南アジア・オセアニア地域における呪術的諸実践と概念枠組に関する文化人類学的研究に有効に援用できるのではないかと考えている。比喩形象的理解という観点を導入することで、呪術を施す人、あるいはその施術を受ける人のなかでは、いかなる事態が起こっているのか、すなわち人が不思議なこと、神秘に向かっていく様態をそのものとして、いかに捉えるか、という課題を捉える視角が得られるのである。

呪術の語りにはしばしば、出来事(病気や不幸)、診断と原因の措定、呪術的行為(施術など)といった構成要素が見出され、これらの要素の組み合わせにおいては、呪術研究では定番の「一見して非合理な信念」といった指摘がなされる。ここで「非合理」といわれるのは因果論的な観念連合でない特質がみられるからであるが、対極に科学的合理性を想定するかのような因果論的関係でもって説明・解釈することには限界がある。しかし因果関係ではないとしても、何らかの論理的関係があるからこそ一連の語りのセットとして提示されるわけである。そこで、因果関係に代替するものとして比喩形象的関係を見出すことができれば、呪術的諸実践の現場で起こっている当事者による事態の諒解のあり方を、因果論的理解とは異なった様態で捉える可能性が拓けるのではないかと考える。

比喩形象的関係においては、時間的にも因果関係の点からもつながりのないふたつの出来事に、あらかじめ表象するもの、あるいは告知され約束されているという関係が成り立っているとされる。個々の出来事は感覚的・具象的出来事であるが、両者の間には時間的にも因果論的にもつながらないはずの出来事に関連性が見出されるという理解の様式である。呪術的諸実践には、一般に周囲に生起する出来事がわかるという場合の「理解」だけでなく、ことばでは十分に表現・説明しきれないことをも受け入れてしまう「半理解」、さらには特定の出来事を意識的に把握しはするがそれを否定的に解釈したり拒絶したりする「反理解」など、さまざまな諒解の様態が見出されるが、これらを比喩形象的理解の諸様式として考えることができるであろう。

もう一点、フィリピン革命の中心を担った結社「カティプーナン」の正式名称、”Kataastaasan Kagalanggalang Katipunan ng mga Anak ng Bayan”の邦訳をめぐる顛末がある。イレートに先んずるフィリピン史研究の重鎮テオドロ・アゴンシリョはこれを「”Highest and Most Respective Society of the Sons of the People”…すなわち「人民の子たち」と訳している」のに対し、「イレートはこれを英語で”The Highest and Most Honorable Society of the Sons of the Country”と訳しており、本翻訳書においても、これに従って「祖国の子たちの最高でもっとも尊敬すべき結社」と訳した」[ibid. 491-492;永野善子「解題」]のであった。この翻訳の困難は、「bayan」という語の多義性によるものである。このbayanの意味のひろがりは、現代フィリピンにおける市民社会と公共性を考える上でも重要であると考える。

bayanという語は使用される文脈によって異なり、まち(town, municipality)、ふるさと(native land, fatherland, motherland)、くに(country, nation)、ひと、公、市民(public, people, citizens)などさまざまな意味がある。とりわけこれがフィリピンの国家建設の草創期にあたるフィリピン革命期にあっては、nationを意味する用語として用いられたことが重要であったわけだが、この国家ならびに国民の概念を称してアンダーソンは「想像するに困難」と指摘する[アンダーソン 2005、第11章「想像することの難しさ」]。ホセ・リサールが『ノリ・メ・タンヘレ』や『エル・フィリブステリスモ』を著したフィリピン国家の胎動時代、国家や国民の概念はある種の「産みの苦しみ」をともなって考案されたのであったが、百年もへずして、ゲレロによる英訳にはその難産の紆余曲折が捨象されてしまうほどに「想像するに困難」だったのである。

硬直しがちな国家という近代概念をbayanを介して考えることの利点は、このような想像困難性を乗り越える点にあると考えられる。発表では、Inang Bayan(母なる祖国)の表象としての聖母マリアが、ローカル・レベルからナショナル・レベルまでさまざまな形象をともなって見出されることをとりあげる。身の丈サイズに拡大縮小できる「伸縮自在」なbayanという概念は、あるときには国家に極度にすり寄り、同時に極端に遠心力を持った対抗的主体ともなりうる「市民」をフィリピン社会に見出す際にも重要であると考えられる。非西洋社会にける市民社会論はNGO・NPO論が中心をなすが、bayan論はそれ以外にも市民社会論が成り立つ可能性を考える道筋でもある。


参考文献

アウエルバッハ、エーリッヒ

  1994『ミメーシス ―ヨーロッパ文学における現実描写―』ちくま学芸文庫

アンダーソン、ベネディクト 

  2005『比較の亡霊』作品社

イレート、レイナルド

  2005『キリスト受難詩と革命』法政大学出版局

(かわた まきと・中京大学社会学部助教授/社会学)

[このページの先頭に戻る]


■次回研究会の予定

◇第17回研究会

【日時】
  2006年2月4日(土)13:30−16:30

【場所】
  京都大学文学部新館5階社会学共同研究室

【報告1】
  報告者:徐 亦孟氏(関西学院大学大学院神学研究科博士課程)
  題 目:「中国におけるキリスト教」

【報告2】
  報告者:川田 牧人氏(中京大学社会学部教授)
  題 目:「フィリピン社会と宗教−−比喩形象と公共性−−」



編集後記

 Newsletter15号をお届けいたします。

昨年もご多忙中の折にも関わらず、研究会への多数のご出席、および本紙へのご寄稿をいただきまして、ありがとうございます。本年も引き続きメンバーの皆様からのご協力を賜りますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。

(水野 記)


[このページの先頭に戻る]

top 趣旨 メンバー 研究会案内 関連企画 Newsletter COE top

21世紀COEプログラム
京都大学大学院文学研究科
「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「多元的世界における寛容性についての研究」研究会

tolerance-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp