21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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Newsletter No.16

2005/8/8

contents


■活動状況

 第17回研究会

日 時:2006年2月4日(土)

《報告1》

キリスト教によるホームレス支援

――リベラルと保守の相克から<幸福>を考える――

白波瀬 達也

【要旨】

1.釜ヶ崎でみられる「二種」のキリスト教

現在日本には約二万人のホームレスがいるとされるが、筆者がフィールドワークを行なっている「釜ヶ崎」は日本で最もホームレスが集住している寄せ場である。現在、釜ヶ崎を見渡すと、ホームレスの多さも然ることながら、ホームレスを支援するキリスト教グループの多さにも目を見張るものがある。

釜ヶ崎で活動するキリスト教は大きく二つの傾向に分類することができる。一つは、ホームレスに至った要因を社会構造にみるリベラルなキリスト教グループ。そしてもう一つが、ホームレスに至った要因を個人にみる保守的なキリスト教グループである。

前者はカトリックとプロテスタントの垣根を超えたエキュメニカルな運動で1970年に分野の異なる複数のグループから成る「釜ヶ崎キリスト教協友会」が結成された。以来、「釜ヶ崎キリスト教協友会」はグループ間のみならず、新左翼運動にルーツをもつ釜ヶ崎の労働運動ともゆるやかに連携している。そして最大の特徴はキリスト教グループであるにもかかわらず、布教活動を行なわないというところにある。

他方、後者はいずれもプロテスタントで、ファンダメンタルな信仰をベースにゆるやかで広範なネットワークを構成している。釜ヶ崎における保守的なプロテスタントの萌芽は既に1950年代にみられるが、近年になってその勢力を著しく伸ばしてきている。釜ヶ崎で活動する保守的なプロテスタントは「釜ヶ崎キリスト教協友会」とは異なり、布教を最も重要な活動だと捉えている。

2.相反するホームレス観とエキュメニズムの壁

釜ヶ崎キリスト教協友会はホームレスに至った要因を主に社会構造にみる。したがって解放へのアプローチは時として反体制的な様相を帯びる。他方、保守的なプロテスタントはホームレスに至った要因を個人にみる。したがって現状に対して不平をこぼすことは否定され、自身が変革することに重きが置かれる。保守的なプロテスタントでは、ホームレスが被る社会的な問題は信仰とは別次元のものと考えられるため、具体的な差別や排除の動きには関心を示さない。釜ヶ崎キリスト教協友会も保守的なプロテスタントも教会・教派を超えたエキュメニカルな運動を展開しているが、ホームレス観の決定的な差異によって両者が意思疎通することはない。ここに釜ヶ崎で活動するキリスト教の政治性が浮き彫りとなる。 

3.労働運動の衰退と保守的なキリスト教の伸張

釜ヶ崎が労働力を供給する寄せ場として機能していた時代には、労働運動が脆弱な環境におかれた日雇労働者を支える主たる担い手だった。労働運動はこれまで労働条件や賃金といった分配的側面に主眼を置いてきたが、雇用慣行の変容と高齢化によって釜ヶ崎の日雇労働者が労働市場から排除される過程で、その影響力を著しく衰退させてきた。

日雇労働者の多くが単身であり家族との関係も途絶えがちなことから、これまで「労働」は彼らの不安定な生を支えるアイデンティティとなってきた。また、新左翼運動に端を発する寄せ場の労働運動がそのアイデンティティを下支えしてきた。まさに労働運動は社会関係資本に乏しい日雇労働者の社会的紐帯として機能していた。

しかし、それが維持できたのも就労のチャンスが相対的に開かれていた高度経済成長期からバブル経済期までのことで、かつて日雇労働者と統一的に形容された人びとは今日、「辛うじて日雇労働に参与できる層」「極めて低賃金のインフォーマル労働に従事する者」「野宿をしながら炊き出しなどの支援に依存する層」「生活保護を受けて施設やアパートで生活する層」など、様々に分断されている。したがって今日の釜ヶ崎では「労働」という経済的なカテゴリーでは括りきることのできない問題が露呈するようになった。

釜ヶ崎では労働運動の衰退にともなって新しい宗教運動=保守的なプロテスタントの活動が前景化した。日雇労働者が仕事を失い、自前で生計を立てることが困難になり、ホームレス化する過程で、炊き出しを中心とするキリスト教による支援活動がこれまでになく意味をもつようになってきている。保守的なプロテスタントは教会や公園、公民館といったさまざまな場所で毎日のように伝道集会を行なっているが、それらはいずれも活況を呈している。この背景には、何より伝道集会で提供される食事の存在を指摘しなければならないが、参加者のなかには食事をとらずに帰る者や、献金をする者がいることから、伝道集会の活況を「食事目的」だけと判断することは早計だ。

資本から無用化されたホームレスは、伝道集会で語られるメッセージに「労働」にとって変わるオルタナティブな価値を見いだしているのかもしれない。それというのも労働からの排除は、所得と産出の機会を奪うだけではなく、存在の承認をも不安定なものにするからである。どのような者であっても全人格的に受け入れようとする保守的なプロテスタントは、社会的排除の状況にあるホームレスにとっては、安心して関係を構築できる数少ない存在であるかもしれない。このように労働運動が分配的側面に主眼を置くのに対し、保守的なプロテスタントはもっぱら関係的側面に主眼を置いたアプローチを展開する 。

「労働運動の衰退と保守的なキリスト教の伸張」という見取り図は釜ヶ崎における労働環境の著しい変化と密接に関連しており、今日の釜ヶ崎をシンボリックに言い表しはするものの、インテンシブに見ていくと、事はそう単純ではないことがわかる。というのも伝道集会の活況とは裏腹に、特定の教会に深いコミットメントをもっているホームレスは多くないからである。

4.表層面における受容と深層面における逡巡

ホームレスの多くが、伝道集会で示される「ホームレスに至った要因の説明」「人格的なまじわり」「存在の承認」などを肯定するものの、反世俗的で場合によっては排他的ともいえる信仰を内面化することには一定の否定的態度をみせる。「表層面における受容と深層面における逡巡」はホームレスの保守的なキリスト教グループとの関わりからみえてくる一つの特徴である。

男性:ワシは今生活保護もろて暮らしてますけどな、アオカンしてるときは教会に随分世話になりました。そら、あん時は食べるもんもおまへんやろ。だからまぁ言うたら炊き出し目当てですわな。

筆者:今、伝道集会に行ってるのは炊き出しのためじゃないでしょ?なんで行ってはるの?

男性:牧師とね、握手するためですわな。伝道集会に行ったら、牧師が「おっさん、元気にしとったか?」って握手してくれるんやね。それが嬉しいてね。昔は随分世話になったしね、顔見せに行ってるんですわ。

筆者:信仰はもってはるの?

男性:いやぁそれが難しいんやな。ワシ、一応仏教やしなあ。

筆者:ずっと伝道集会に行ってたら信仰もつように言われるでしょ?

男性:そうなんや。いつも「信仰もたなアカンで」って言われるんですわ。この間は「信仰もたな握手せえへんで」って言われてね、困りましたわ。

これは定期的に伝道集会に参加している元ホームレスとの会話だが、彼は食事目的で伝道集会に行っているわけではない。「牧師と握手するため」という語りからもわかるように、彼が求めているのは信頼できる相手との親密な関係の構築である。しかしながら信仰をもつように促されることには躊躇がみられる。何より彼らを逡巡させているのは入信と裏表の関係にある「過去の清算」にあるのではないだろうか。というのも保守的なプロテスタントの論理を全面的に受容するということはこれまでの生を否定することを意味するからである。とりわけラディカルな労働運動の論理を内面化してきた者にとっては保守的なプロテスタントの論理を全面的に受け入れることは容易でないだろう。

5.幸福はどこにあるのか

構造的な問題に目を向けない保守的なプロテスタントによるホームレス化の説明原理では、ホームレス自身に対する苦難の意味づけを可能にしても、ホームレス化をとどめることはできない。他方、釜ヶ崎キリスト教協友会のような労働運動的アプローチでは、ホームレスを取り巻く状況を科学的・客観的に説明できても、その説明原理は労働市場から排除されたホームレスの現実感覚から程遠く、彼らの主観的な意味世界へ鋭く切り込むことができない。労働運動が問題を社会構造に見出すこととは裏腹に多くのホームレスが自己責任をある程度内面化している。

「労働運動の衰退と保守的なキリスト教の伸張」が示唆しているように、「労働者の街」から「福祉の街」へと変貌していく過程で、釜ヶ崎に生きる日雇労働者/ホームレスの関心もマテリアルなものから実存的なものへと変わりつつあるのかもしれない。とはいえ前述したとおり、保守的なプロテスタントの伸張は信者の増大を意味するわけではない。

相克しあう二つの価値の狭間でホームレスの多くはどちらにも収斂されない生を営む。多くの場合、ホームレスが現実の生活のなかで感じる「しあわせ」は、保守的なプロテスタントが提示する幸福観とも、労働運動が提示するそれとも異なる。「表層面における受容と深層面における逡巡」から示唆されるのは、特定の宗教やイデオロギーに統合されないかたちでなされる「存在そのものの承認」への希求ではないだろうか。しかし現実にはある種のラディカリズムによってでしか承認されえない。このことは「自業自得」「自己責任」という表象に典型的なホームレスに対する負の眼差しが堅固であることを逆説的に言い表しているのかもしれない。

(しらはせ たつや・関西学院大学社会学研究科博士後期課程/社会学)



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《報告2》

イスラエルのキブツと協同組合村に見られる公共性

――経済的観点を主として――

堀川 敏寛

【要旨】

1.はじめに シオニズムと共同体建設
 

19世紀の終わりから20世紀にかけて、パレスチナの地におけるユダヤ人国家建設運動シオニズムはますます盛んになってきた。それは近代化が遅れた東欧、ユダヤ人虐殺が起こったロシア、ナチス政権化の地域を中心に、大量の移民がパレスチナへと流入する事態を引き起こした。それ故に、この地において、この移民を受け入れる為の共同体建設が緊急に必要となった。

特に入植したユダヤ人は、学生や知識人階層が主で、農業経験者はほとんどいなかった。それにも関わらず入植者達は、新たな地における農業労働を重んじた。特にロシアから主としてやってきた第二波移民は、思想的に社会主義的シオニズムの傾向を帯びており、彼らは「土に帰れ」というモットーを掲げ、一種の農業労働至上主義の考えを持っていた。また文化シオニストであるマルティン・ブーバーは、今まで知的職業のみを尊しと考えてきたユダヤ人の悪しき風潮を反省する為にも、土地と取り組む第一次生産活動に従事することの大切さを説いた。

現在においてもイスラエルの農業基盤となっているは、モシャヴとキブツの運動で、これらだけで全農業生産の90%を占めている(1989年時点)。モシャヴは「協同組合」を作って必需品を購入したり、製品を作ったりして利益を得る小自作農の組織である。また「キブツ」は社会主義的な「共同体」で、労働シオニズムと一体化している。現代イスラエル国家の政治体制も、入植者たちが主体的に育て上げてきた協同組合や労働組合を大きく内部に含んでいる。また全奥的な組合統合体としてのイスラエル労働総同盟を通じて、入植者たち自身がイスラエル資本主義を動かす大きな主体となっている。

2.協同組合(Genossenschaft)

キブツと協同組合の形成には、オーエンなどの先駆者を経て、特にランダウァーにおいて結実した「ユートピア社会主義」の思想が大きく影響していた。この思想において、真の社会は、共同的生活を基盤とする小社会と、これら小社会の連合体から構成され、しかもこれら小社会の成員相互の関係や小社会と連合体との間の関係も可能な限り内面的な結びつきをもたらす社会的原理によって規定されねばならない、と考えられた。このようにユートピア社会主義は、地域社会主義とも言い換えうる。それは生産と消費との結合の上に共同生活が建設される村落共同体であり、農業をベースとして工業および手工業との有機的結合が求められた。そしてこの連合の基で形成される社会は、本質的に孤立した個人から成り立つのではなく、地域的、職能的な共同体単位とその連合とから構成される。それは隣人組合(Nachbarschaft)、現実の職業組合(Werkgild)のような形態をとるものだ。

従って協同組合は自己目的的であってはならない。それは社会全体を法律や制度によって外から強制的に変革するのではなく、社会の構成員の自発的な参加を基礎にして、内部から部分的、段階的に変革して行くものである。その組合には三類型があり、それは1.消費協同組合、2.生産協同組合、3.完全な協同組合である。三番目の組合は、生産と消費の協同組合が完全に合致することによって成立する。また生産者としての人間は消費者としての人間よりも、よりいっそう積極的に仲間と共同的であるゆえに、消費過多に傾きがちの生活は改めねばならない。

3.キブツ(ヘブライ語で「集団」)

そして「キブツ」が完全協同組合によって成り立つイスラエルのユダヤ人村落共同体である。その人口はイスラエルの約4%にあたる。ここでは国家と個人の間に各人の自由意志に基づいて小さな共同体を造り、これを通して社会構成員相互の関係を内実から改革・変革し、新しい共同体を造った。これはパレスチナにおけるユダヤ人の移住、定着、更に建国という民族的過程の中で建設されたように、地域的現実の要求に基いて生まれた共同体である。そして入植者は相互扶助と協力の原理に基づき、調和的な同胞関係を理想とするユダヤ人の協同集団農場を設立した。彼らの目的はただ単に一つの新しい国家を作るということではなく、むしろ従来の社会的矛盾から解放された新たな社会を創ることにあった。

集団農場としてはソ連のコルホーズ、メキシコのエヒド、中国の人民公社らが国家の政策によって作られたのに対し、イスラエルにおけるキブツ(初期の名称はクヴツァ)は政治的原理とは異なる「分離的団結」によって完成する協同村である。よってそれは中央集権化された国家ではなく、共同生活し共同生産する農村や都市労働者とその代表団を社会単位とする。ここの成員は、絶えず互いに関係し合うのではなく、同志として互いに開かれ合いその用意ができた人間によって構成される。それと同時に、家計・生活秩序・子供の教育らに、ある程度の個人的な独立性を保持する半個人主義形態をもとっている。

4.問題点

どのキブツにおいても、新たな土地に入植する際につきものの諸問題が、肉体労働の苦しさと伴って起こった。それは入植者が今までとは全く異なった生活の原則に従い、互いに知らない者同士が寄り合い、中には全然肉体労働の経験のない者たちを上手にまとめねばならない所以である。また1948年のイスラエル建国後、70万人を越える入植者が流入し、それの受け入れ問題が起こった。特にこれらの人々の大多数は中東諸国、北アフリカのような発展途上の国からの者であり、ヨーロッパからは10年に及ぶ人格喪失と肉体衰弱で疲弊し切っていた。他にもプライヴァシーの欠如、個人的自由の拘束、集団的体制への反発(ex. 私的欲求(利己主義・獲得欲・権力欲)の抑制)、特殊な人間関係からくる不満や緊張の問題(ex.不満のはけ口が無い)などの問題が現存する。

これら問題の原因として、あるキブツ=デカニアの成員は、20世紀初頭における国土建設の士気が衰え、次第に消費生活を求める生活形式が蔓延した所以である、と振り返る。生産と消費が結びつくことに意義があった協同組合も、都会の生活に惹かれてしまえば、底なしの消費がかさんで来る。その為には生産部門の拡大による増収しか解決策はない。そうせぬ限り、村落共同体としてのキブツを去る若者が絶えないであろう。またキブツにおける消費過多の現象は、何も贅沢という精神的なものに限らず、生産を維持する為に年々増大する新規設備投資にもよる。というのも経営規模の拡大と生産力向上に努めねば、キブツはイスラエル経済の発展について行くことができないであろう。イスラエル社会全体の消費水準が上がれば上がるほど、建前の上では資本家的経営体の原則である最大利潤の追求と拡大再生産を目的としないキブツも、必要な収入維持の為に生産力を高めて行かねばならないのである。

事実キブツ=デカニヤなどでは赤字経営が問題となっている。伝統的な農業中心主義では経営が不安定な点から、50年代から工業経営へ転換したのだが、その資産は大きく外部資金に依存している。イスラエル農業銀行など政府や組合の金融機関からの借入金が増大し、自己資金率は増加を示していない。そしてもう一つの困難が労働力不足である。1950年代初期までは絶えず流入する新移民が労働力となったが、その後は移民が止まり、不足分を補うために、自己労働のスローガンを捨て、キブツへ通勤する外部の雇用労働者を受け入れるようになった。

5.終わりに キブツや協同組合に見る公共性

真の共同体には、「親密さ」は問題ではない。問題は「開放性(Aufgeschlossenheit)」にある、とマルティン・ブーバーは述べている。キブツは村落共同体内の労働を通して、一人一人が主体的に開かれ合い、用意ができたもの同士が互いに結びつき合うことによって形成されるものである。それは脱出不可能な牢獄ではなく、メンバーの出入りが可能な共同体であることから、そこには開放性がある。キブツにはこのような公共性の一要素を持ちながらも、ユダヤ民族の拠り所であるユダヤ宗教性を核にして、民を結びつけようと試みる共同性も見られる。すなわちキブツは、ユートピア的社会主義の実現を目指して建設されたものであると同時に、その源流をユダヤ人の宗教的伝統と聖書の教訓とメシア的ビジョンに発している。つまりキブツはユダヤ人が共に生きていく為の共同体であり、それを結束する為の同一性をも目指している。よってここで見られる公共性はユダヤ民族間のものであり、それは外部から見る限り、集団的共同体主義の形をとっているようにも思えるだろう。アーレントの議論に即して議論するならば、キブツ内の生活は、万人によって見られ、開かれている「現われ」によって形成されている公共空間である。だが同時にこの公共空間はユダヤ民族とその宗教性を軸とした集合的アイデンティティを示すことで結束している共同体であり、ここに差異と複数性が見られるかは疑問である。だが差異性と複数性は、様々な価値の流入と同時に、消費欲求を更に促す情報が流入することでもある。そうすれば生産と消費のバランスを保っていた完全協同組合の理念は崩れるであろう。協同組合は、グローバリゼーションによって進行するであろう貿易の自由化とそれに伴う価格競争に太刀打ちできるものではない。つまり、シオニズムの中で望まれていた共同体キブツとは、人間の直接的連帯生活の有する古い有機的連合体であって、家族、職業組合、村落・都市自治体などがこの形式に属する。よって現代イスラエル国家の自由主義経済の中においても、未だ農業生産面でその主軸を担い、現在でも強く残っているキブツや協同組合は、資本主義経済状況とどのように並存していくべきなのか、今後注目に値すると言えるだろう。


(ほりかわ としひろ・京都大学大学院文学研究科博士後期課程/キリスト教学)


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■次回研究会の予定

◇第18回研究会

2006年4月下旬あるいは5月上旬に開催予定ですが、ただいま調整中です。メンバーのみなさまには、決まり次第早急にメールでご連絡申し上げますので、いましばらくお待ちいただきますようよろしくお願い申し上げます。



訂正

 前号(No.15)ニュースレターで、ご報告者「徐 亦猛」氏のお名前を、誤って「徐 亦孟」氏と表記しました。たいへん失礼いたしました。ここに訂正させていただくとともに、深くお詫び申し上げます。

(正) 徐 亦猛氏

(誤) 徐 亦孟氏



編集後記

 Newsletter16号をお届けいたします。そろそろ春の気配を感じる毎日となってまいりました。

年度末のご多忙の折にもかかわらず、第17回研究会への多数のご出席、および本紙へのご寄稿をいただきまして、誠にありがとうございます。おかげさまで2005年度のスケジュールを終えることができました。

今年度をもちまして、事務局は交代となります。1年余りの任期中、芦名先生はじめメンバーのみなさまには、多大なお力添えをいただきましたことを、ここに深く感謝申し上げます。

新年度からは新たな研究員が事務局を務めることになると存じます。引き続き本プロジェクトへメンバーの皆様からのご協力を賜りますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。

ewsletter15号をお届けいたします。


(水野 記)


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京都大学大学院文学研究科
「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
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