21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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Newsletter No.4

2003/09/30

contents

 調査報告

■活動状況

 第5回研究会

日 時:2003年9月20日(土)

《報告1》

不気味さの論理――オウム真理教と地域社会

野中 亮(大阪樟蔭女子大学人間科学部専任講師)

【要旨】

 本報告の目的は、オウム真理教(以下、オウム)の進出に対する地域社会の反応を紹介し、事例を通じて寛容性の問題について考察を加えることである。事例としては、熊本県波野村と山梨県上九一色村におけるオウム反対運動をとりあげる。キーワードは「不寛容」と「不気味さ」である。
 また、本報告では仮に「不気味さ」を以下のようにとらえておきたい。

 「不気味さ」とは、相互理解を求めない「不寛容」の表出形態の一種、あるいは相互理解を欠いた無自覚な「消極的寛容」の表出の一種である。また、それを感じている本人にとっては「不寛容」の動機となりうる。

 オウム進出当初の村の人々のオウムに関する知識はゼロに等しい状況で、最初はかなり漠然とした不安が広がったようである。結局、波野村では上九一色村のような具体的な問題(後述)が生じていたわけではく、当初のオウムイメージが「うわさ」に代表される不確定な情報として増幅されていった。
 波野村においては、現実的な被害は発生していないにもかかわらず、信者とのもみ合いで機動隊が出動したり、行政が法的根拠のない住民票不受理などの対応をとったり、ついには9億2,000万円というにわかには信じられない金額の「公金」を支出するはめになったり、という「騒動」が展開されたのである。
 波野村と比較した場合の上九一色村の反応の最大の特徴は、「実害」の存在である。騒音や振動、悪臭、事故などの生活環境にかかわる被害や脅迫まがいの行動など、上九の住民達は相当な実体的な被害を受けていた。こうした経験はオウムに対する幻影的な不気味さではなく、実体的な恐怖と嫌悪を生み出したと考えられるだろう。
 しかしながら上九の場合、オウム反対運動は住民に十分な成果をもたらさなかった。村はオウム信者の住民票を早々に受け入れ、運動を継続した住民は村内で孤立していったのである。村で一致団結し、県の援護まで受けていた波野とは対照的である。
 このように実体的な被害の有無というファクターと絡めてみると、二つの事例のあいだで奇妙なねじれが生じていることに気づかされる。実体的な被害がなかった波野村でなぜあれほど徹底した排斥運動が可能であったのか、また翻って、実体的な被害を受けていた上九一色村ではなぜ排斥運動がうまくいかなかったのだろうか。
 動機の合理性という点で、県(行政や一般県民)やマスコミなど外部からの理解・援助を得やすいのは上九一色村の方であるはずであるにもかかわらず、「ねじれ」が生じてしまったのはなぜか。おそらく、合理的に考えれば外部の理解を得にくいはずの波野村の「不気味さの論理」の方こそが、実は外部のわれわれに対して独特な説得力を持っていたのではないだろうか。
 そもそも「排除」とは何らかの意味で相容れないものを共同体の外部にはじき出すという性質の行為である。上九の場合、「誰が見ても迷惑な行為」を反省もなく繰り返す者の排除という、いわば市民社会の論理に即してみれば誰にでも理解可能な原理をもっていた。一方、波野村の方は、何が相容れないのかを理解するための論理・意味コードが外部の我々には自明ではない。
 しかしながら、この「コード」は理性的に理解できなくとも「肌で感じる」ことはできるタイプのものであるらしい。波野の村民たちが感じた「相容れなさ」がどのようなものであったのかを明確に言語化することはむずかしいが、運動の経過から若干の考察を加えることはできると思われる。
 波野にオウムが進出した当初には村人のオウム理解はマスメディアなどからの伝聞情報、2次資料に基づいていた。もっともこうした初期設定はその後の実際の経験によっていくらでも変更の可能性があるのだが、それを疎外する大きな要因があった。オウムが持つ閉鎖性である。村人たちがいだいた「不安」は、このオウムの閉鎖性、しかもかなりかたくなな態度をもって貫かれた閉鎖性によって増幅された。
 一方で村民たちの態度にもかたくななものがあった。運動の途中から、オウム以外の外部に対する閉鎖性を持ち始めていたからである。あまりにもかたくなな村の態度は後に県からのバックアップを失うきっかけになったし、また、マスコミの報道や人権団体の活動など村にとって都合の悪い要素も出始め、村民たちは「よそ者」とのコミュニケーションにかなりナーバスになっていったのである。このような波野村での運動の経過をみていくと、村・オウム双方の閉鎖性が互いの負のイメージを拡大再生産するという一種の共犯関係にあったことがわかる。
 では、上九一色村において外部への訴求力が弱かったのはなぜだろうか。端的にいえば、さきのような負のフィードバックが「拡大再生産」の機能をともなっていなかったことによると思われる。波野村における負のフィードバックが作り出した「神話」は、村外の人々をも巻き込んでゆくだけの力をもっていた。その力の源泉は「正体を知り得ないもの」がもつイメージの喚起力である。
 上九においてはオウムが持つ負のイメージが、「実体的な被害」という強い枠によって制約されていた。極端な言い方をすれば「単なる迷惑者」であり、その意味では、外部から見た場合、上九での騒ぎは不思議でもなく、不安がかき立てられることもないありふれた出来事にすぎない。オウムは巷によくある「問題のある信仰宗教」のひとつでしかないのである。
 最初の情報があまりに堅固だと、「恐怖」こそ生み出されるものの、「正体不明のもの」に由来するいわく言い難い「不気味さ」は醸し出されることはなかったのだろう。
 本報告では「不寛容」の問題について、上九一色村と波野村の事例の相違点を強調するかたちで考察を加えた。個々の事例の特徴を明確にすることはできたものの、「不寛容」の根底にある「不気味さの論理」を浮き彫りにするにはまだまだ検討が必要なようである。今後の課題としたい。

※この報告で使用した資料の大半は、熊本大学教養部現代社会研究会に端を発する甲南女子大学芦田徹郎氏主催の私的な研究会が長年にわたって蓄積してきた資料によっています。報告に際して資料の使用を許可していただいた研究会の方々に感謝致します。


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《報告2》 

寛容と無関心のあいだ――村上春樹をめぐって

松浦雄介(熊本大学文学部専任講師)


【要旨】

 はじめに

 あるところで村上春樹は、かつて自分は社会からのデタッチメント(離脱)を目指していたが今はコミットメントを求めるようになった、と語っている。村上春樹の初期作品において追求されていたのは、七〇年代以降の消費社会のなかで、孤独でいることの倫理だった。主人公は、あらゆる対象から距離をとり、孤独を維持し、周囲にたいして無関心であることによって、あらゆる不可解な他者を受け入れる。それは一見、きわめて寛容な態度のように見える。しかしその態度を支えているのは、むしろ無関心である。それにたいして近年の村上春樹を特徴づけるのは、コミットメントへの志向である。この志向は『ねじまき鳥クロニクル』(1994~1995)において全面的に現われ、阪神大震災とオウム事件を契機として、いっそう深まる。前者への関心は小説『神の子どもたちはみな踊る』(2000)に、後者のほうは当事者へのインタヴュー集『アンダーグラウンド』(1997)および『約束された場所でunderground2』(1998)に、それぞれ結実している。また、『海辺のカフカ』(2002)は、近年の少年犯罪を意識して書かれている。
 この村上春樹の態度変更は、現代日本における寛容の問題の複雑な諸相を、独特なかたちで照明している。多元主義と自己決定を一般的な社会原理とする今日の社会において、寛容はある種の時代の気分となっている。しかしそれは、むしろ無関心と言うべきものであること、無関心が寛容と取り違えられることも、稀ではない。
 寛容と無関心は、自分とは異なる価値観や態度、生活様式をもつ人や集団を肯定する態度である点で似ている。それゆえしばしば混同されるが、両者は似て非なるものである。たとえばインドの政治家ネルーは「寛容と無関心はいつの時代にも紙一重だ」と述べている。また、二〇世紀オランダの神学者A・A・ファン・ルーラーは次のように言っている。「寛容は個人の内側にある傾向であり、人間であるうえで、そしてまた社会のなかでともに生きるうえで必須の要件である。寛容が無関心になるとき、それは破滅する」。寛容と無関心とは外的な帰結においては似ているが、内的な動機づけにおいて異なっている。寛容は他者の承認にもとづくが、無関心は放任ないし非関与である。寛容は他者へのコミットメントに由来するが、無関心は他者からのデタッチメントに由来する。「寛容は非寛容にたいして寛容になるべきか」という問いは、寛容にとってはアポリアとなるが、無関心にとってはそうでもない。
 本報告では、錯綜する寛容と無関心の関係を明瞭に問い直すための一つの準拠点として、村上春樹の小説を取り上げる。村上春樹はどのようにしてデタッチメントからコミットメントへと態度変更するにいたったのだろうか。そしてそのコミットメントは、寛容/非寛容とどのように関係しているのだろうか。この二つが、本報告における基本的な問いである。最初の問いにたいしては小説の読解をつうじて、二つ目の問いにたいしてはオウム事件にかんする著作の検討をつうじて、考察する。

 1.私的世界とデタッチメント

 村上春樹の小説の主人公は、絶対的に受動的な人間である。あらゆるものから距離をとり、無関心の態度を維持し、いかなる喪失にも執着せず、いかなる不可解な出来事をも受け流すこと、これが主人公のスタイルである。この無関心は、一種の倫理的態度として選択されている。出来事は世界の複雑な因果の網の目のなかで生起する。だからそれはつねに不可解なかたちで立ち現れる。主人公があらゆるものから距離をとるのは、世界のこの不可解さを、安易にわかったことにすることの拒絶である。私的世界にとどまることは、社会的世界における人間関係の葛藤を避けるという消極的な理由からのみ選択されているのではなく、不確定な世界のなかで、恣意的に因果関係を設定して責任を誰かに押しつけるよりも、複雑な因果の絡まりを掘りさげ、解きほぐしてゆくという積極的な理由からも選択されているのである。


 村上春樹の作品世界では、あらゆるものが相対的であるという事実だけが絶対的である、という認識の上に成り立っている。この認識が目を引くのは、それがある種の拘束感をもたらしている点である。この拘束は、自由を因果的つながり(原因と結果の連鎖)からの離脱=デタッチメントと捉えたところから生じた。そのことが明らかとなったとき、村上春樹の自由の概念にベルクソン的転回が生じる。すなわち、自由とは、事物の因果的な流れの外にあるものではなく、その中にある。因果的流れの多様性ゆえに、出来事の生成のプロセスは不確定である。自由はこの不確定性にある。このような認識の転回を遂げた村上春樹が、『ねじまき鳥クロニクル』において歴史へ、『海辺のカフカ』において記憶へと向かったのは必然であった。歴史も記憶も、出来事の生成にかかわる多様な因果的流れそのものだからである。

 2.『ねじまき鳥クロニクル』のコミットメント

 村上春樹のコミットメントは『ねじまき鳥クロニクル』において全面化する。物語は、おおよそ次のとおりである。ある時、主人公の妻が失踪して義兄のもとに行く。主人公は社会の暗部の象徴のような義兄と接触してでも、妻を取り戻そうとする。その過程で、他の登場人物の語りをつうじて過去のさまざまな歴史が介入し、物語の糸は複雑に絡まりあう。因果的つながりの複雑化による世界の不透明化は、初期作品以来、繰りかえされてきたモチーフである。しかし『ねじまき鳥』以前は、たとえ主人公には知られてなくても、一貫した因果的つながり自体はあるはずだという期待があった。それにたいして『ねじまき鳥』では、そもそもあるべき因果的つながりというものがあるのかどうかすら、疑われている。そのために主人公は、妻が失踪しても即座に行動には移ることができない。主人公がこの受動的状態を脱するのは、三年前の妻の堕胎が、今回の彼女の失踪と因果関係があることに思いいたることによってである。かつて主人公は、妻との結婚を「まったく新しい世界を作る」ことと考えていたが、彼女を失った今、自由なコミットメント(妻との結婚)の背後にある拘束(歴史)へ向かうことによって、その自由の回復を目指す。

 3.純粋な悪:オウム真理教と寛容の限界

 村上春樹のコミットメントが寛容の問題系ともっとも鋭く交錯するのはオウム事件をめぐる著作においてである。『アンダーグラウンド』のあとがきには、オウム事件に取り組んだ動機が書かれている。村上春樹は、マス・メディアやそれによって形成された世論の「オウム=悪」と見なしてすまそうとする風潮に違和感を覚える。「この地下鉄サリン事件の実相を理解するためには、事件を引き起こした『あちら側』の論理とシステムを徹底的に追究し分析するだけでは足りないのではないか。…それと同じ作業を、同時に『こちら側』の論理とシステムに対しても並行して行なっていくことが必要なのではあるまいか」[1999:740〜741]。しかし、この問題意識に照らしてみるならば、『アンダーグラウンド』は本質的に奇妙な作品である。「『こちら側』の論理とシステム」を解明する必要が説かれながらも、じっさいに本書でなされているのは被害者へのインタヴューだからである。
 村上春樹は悪を二種類に分ける。第一の悪は社会状況が変われば善になるかもしれない相対的なものであり、「人間というシステムの切り離せない一部として存在する」[同上:311]。第二の悪はそのようなものによっては説明のつかない絶対的な「純粋な悪」である[同上:312]。オウム真理教は、犯罪を犯した面を除けば、現在の社会に適合できない人たちの受け皿として一定の社会的機能を果たしていたが、サリン事件によって、純粋な悪へと変質した。
 ここに村上春樹における寛容のアポリアが立ち現れる。寛容が悪(それは異質なものの極限型である)を許容するのは、それが自己の存在や安全を危険にさらさない限り、すなわちそれが相対的な悪である限りにおいてであり、その限りにおいては、悪はむしろ自己の<現実>を成り立たせるために必要でさえある。しかし、それが自己を危険にさらす絶対的な悪に変質するとき、それは自己防衛のために排除される。この態度が便宜的にすぎるのは明らかである。第一に、それは<相対的/絶対的>を区別する基準が不明である。第二に、それは結局、寛容は自己や社会に都合の良い範囲でのみ実現されると述べているようなものである。しかし、おそらく問題は別のところにある。
 寛容は非寛容にたいして寛容であるべきか、というようなアポリアは、論理的に解決することはできない。テロ事件を起こしたオウム真理教にたいして寛容であるべきか否か、と問うよりも、オウム事件を生み出すにいたった社会の「論理とシステム」の解明こそが必要である。多様な因果的つながりによって生成した出来事を探求することこそ、村上春樹が『ねじまき鳥』において到達した認識であった。そしてオウム事件を「あちら側」の問題としてではなく、こちら側の論理とシステムとの相関において捉えようとしたとき、たしかに村上春樹はそのような認識を実践しようとしていたはずだった。しかしそれは未だなされていない。問われなければならないのは、寛容の社会的条件である。

 【主要参考文献】

村上春樹1999『アンダーグラウンド』講談社


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◇調査報告1

韓国キリスト教実地調査(COE多元的社会における寛容性についての研究の一環)について

 岩城 聰(京都大学大学院博士後期課程 キリスト教学)

【調査目的】

2003年8月2日(土)〜8月7日(木)に、下記の日程で韓国のソウルとプサンを訪問した。

月日
旅程
内容
宿泊
8月2日(土) 大阪出発・ソウルへ ソウル
8月3日(日) ソウル 聖公会ソウル大聖堂主日礼拝出席、信徒との座談 ソウル
8月4日(月) ソウル 見学 、信徒訪問・聴き取り ソウル
8月5日(火) プサンへ移動 見学 プサン
8月6日(水) プサン 見学、聴き取り プサン
8月7日(木) 大阪へ

 訪問に当たって準備した調査項目は、次のようなものであった(韓国語で準備)。

  1. これまでに(特に戦前・戦中、つまり日帝支配の時期、および解放後に)日本のキリスト教会、キリスト者と出会ったことがありますか。具体的に名前を挙げて聞かせてください。
  2. そのとき、日本の教会・キリスト者は、あなたにどのような態度を取りましたか。具体的に聞かせてください。
  3. それに対して、あなたはどう感じましたか。率直な気持ちをお聞かせ下さい。
  4. 韓国と日本のキリスト者の主にある兄弟姉妹としての交わりを確立するために、日本のキリスト者は何をすべきだと思いますか。具体的に意見をお聞かせ下さい。

【調査の結果】

 ソウルでは、大韓聖公会ソウル大聖堂を訪問し、大韓聖公会韓日宣教協働委員会のメンバーと懇談した。報告者の意図は、著名な指導者レベルではなく、日韓の無名の教役者(聖職者)や信徒のレベルで、プラスであれマイナスであれ、何らかの接触や交流があったのではないか、もしあれば、その証言を収集しようということであった。ところが予想に反して、そうした接触や交流はごく例外的であって、一般の信徒の間ではほとんど接触がなかったということが明らかになった。例外的な事例については、詳細な調査を予定している。
 プサンでは、プサン外国語大学の金文吉教授のご協力を得て、長老派(プレスビテリアン。韓国では長老教と呼ばれ、統合派、合同派、高麗派などに分かれている)の主要教会の長老(役員)のみなさんと懇談をもつことができた。戦前、戦後の様々な経験についての貴重な証言を得ることができたが、中でも印象的だったのは、解放後、朝鮮の学校が、民族の歴史や言語、伝統についての教育を担うことが困難であった時期に、朝鮮人の教会がそうした役割を積極的に担っていったという事実であった。また、1919年の独立運動、太平洋戦争下での神社参拝拒否闘争など、現在の韓国キリスト教の一つの側面を形成する重要な経験についても証言を得ることができた。しかし、ここにおいても、一般信徒のレベルで日韓のキリスト者が接触・交流したという例はほとんど聞くことができなかった。

【報告の展望】

 一般信徒のレベルでの接触・交流が希薄であったというのは、寛容性ということを考える上では、どう理解すべきだろうか。接触がなかったというのは、衝突や対立がなかったことにつながるが、同時にそれは、無関心という恐るべき排除を内包しているのではないかと思われる。それは少数者や異質な者に対する寛容を説くキリスト教にとっては由々しき事態ではあるまいか。
 調査をまとめるに当たっては、既存の文献資料も活用しつつ、次のような構想をもって臨みたい。

(1) 表題:日韓キリスト教関係史の一断面―両国キリスト者の接点―
(2) 内容
@ 歴史的背景と全体の基調。植民地宗主国が日本という非キリスト教国であり、そのもとで当初から民族的抵抗勢力との結びつきが強かったキリスト教の特殊性。日本キリスト教指導者による植民地政策協力。韓国キリスト教界に対する日本キリスト教の指導者たちの働きかけ・干渉。
A 韓国人キリスト者に受容された日本人キリスト者たち
B 非常に限定された信徒感の接触

この中では、今回の調査結果は主に(2)のBにおいて活用する予定である。

* * *

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◇調査報告2

フランス・スペインのバスク地域を訪れて

野村明宏(京都大学大学院文学研究科COE研究員 社会学)

  今夏8月の約一ヶ月の期間、COEプログラム「多元的世界における寛容性の研究」の資料収集と調査のためにバスク地域を訪れた。フランスとスペインの国境にまたがるバスク文化の現在は、今回わたしの滞在した沿岸部のバイヨンヌ(フランス)、ビルバオ(スペイン)、山間部のサン・ジャン・ピエ・ド・ポー(フランス)やパンプローナ(スペイン、ナバラ地方)といった各地においても、それぞれが地域ごとの多様性を含みこみながら、緩やかな文化的伝統を共有している。
 一般にヨーロッパ世界におけるエスニック・アイデンティティは、キリスト教を基盤においた広域の社会的・文化的属性と、国民国家の枠組みによるナショナル・アイデンティティとに重層的に折り込まれる構造をもつため、「三空間並存モデル」という分析枠組みで論じられることもある。しかし、こうした「EU−国民国家−地域」という三層から構成されるヨーロッパの多元的アイデンティティは、近代以降の国境による分断を受けたバスク地域の地政的な配置においては、いうまでもなく単純な階層化がおこなえるわけではなく、ひとりひとりのバスク人には複数のアイデンティティの並存状態が内在的に備っているわけでもない。
 フランスとスペインのバスク人は、近代国家の形成以降、それぞれが帰属することになった政治的環境との関係の中で、多様に分岐していくプロセスを否応なく経験させられてきたわけだが、その一方で、それぞれに固有の状況に投げ入れられた人々による能動的な活動自体が、もともとバスク文化に潜在的に備っていた可能性を近代化の中で多様に展開させていったとみなすこともできるかもしれない。その意味では、バスクのエスニック・アイデンティティは、現代のエスニシティをめぐる争点のひとつとしての構築主義と本質主義のいずれかで截然と理解することの困難さを示すことにもなろう。また、元来複数のバスク語方言が分散し、今回わたしが滞在する機会を得た沿岸部と山間部との間にある文化的、経済的差異を加味してみても、バスクはいわゆる「家族的類似性」(ウィトゲンシュタイン)としか示し得ないような緩やかな紐帯による共同体ということになるだろう。そうした状況は、現在では公用語の地位を得つつも日常語としては衰退の中にあるバスク語の状況や、工業化によってスペイン経済を牽引するビルバオ、観光産業と接合しているバスク各地を訪れる中では、バスク地域のアイデンティティが、想像された「想像の共同体」とでもいうものであり、反省的に過去の「バスク的なるもの」を現在に投影して想いを馳せること自体に、ポリティカルな意味あいが込められてしまうように思える。
 とはいえ、今夏の滞在中、すこぶる熱波に襲われたヨーロッパにおいては、未来へと変化しつつあるバスク地域の多くが、かつてのような政治的熱気を帯びる可能性を弱めつつ、中世の佇まいを静かに保存し持続させていくようにも感じられた。


■国際シンポジウムのご案内

 国際シンポジウム「宗教間対話と平和思想の構築――現状と課題」が下記の日程で開催されます。多くの方々のご参加をお待ちしております。

【日時】 10月25日(土)14:00−17:30
【場所】 京都大学文学部新館2階 第7講義室

【プログラム】

シンポジウムの趣旨説明

芦名定道(コーディネーター・京都大学大学院文学研究科助教授・キリスト教学)――「宗教的多元性と平和思想−キリスト教の場合」

第1部:パネラーからの提題

氣多雅子(京都大学大学院文学研究科教授・宗教学)――「日本仏教者と平和思想」
金 文吉(釜山外国語大学教授)――「内村鑑三の平和思想と朝鮮無教会の動向」
許 油(大韓仏教研究所所長)――「朝鮮仏教の対話と平和思想」

第2部:討論

コメンテーターからのコメント

   落合恵美子(京都大学大学院文学研究科助教授・社会学)
   岩城 聰(京都大学大学院文学研究科博士後期課程・キリスト教学)

討論

フロアーから

* シンポジウム終了後には懇親会の席を設けていますので、お時間がありましたらこちらにもどうぞお立ち寄りください(詳しくは、当研究会事務局までお問い合わせください)。


■次回研究会の予定 

◇第6回研究会

【日時】

12月20日(土)1時30分〜4時30分

【場所】

京都大学文学部新館5階社会学共同研究室

【報告1】

報告者:松田素二(京都大学大学院文学研究科教授)
題 目:寛容と不寛容──西ケニアにおけるキリスト教布教をめぐって

【報告2】

報告者:野村明宏(京都大学大学院文学研究科COE研究員)
題 目:多元的世界と表象のポリティクス


編集後記

 第2号のニューズレターでもご案内しましたように、10月25日に国際シンポジウムがいよいよ開催されます。
 秋は学会などの時期と重なることも多いとは存じますが、ご参加いただけますと幸いです。シンポジウムのパネラーの先生方が報告されます詳細な内容については、当研究会ウェブサイト上でもご覧になれます。ぜひアクセスしていただき、当日の討議の参考にしていただければと存じます。
 URLは、下記のとおりです。
   https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/archive/jp/projects/projects_completed/hmn/tolerance/tolerance_symposium.html

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21世紀COEプログラム
京都大学大学院文学研究科
「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「多元的世界における寛容性についての研究」研究会

tolerance-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp