Newsletter No.7
2004/05/31
宝月 誠 HOGETSU Makoto(文学研究科教授:社会学)
現在の関心は、犯罪・逸脱といった社会事象を構築し統制する過程総体をとりあつかう社会的コントロールの諸相にあります。具体的な社会事象から出発して、人間の生の営みの深部を明らかにするという立場から、この研究会にも関わりたいと考えています。
松田 素二 MATSUDA Motoji(文学研究科教授:社会学)
主な調査関心は、東アフリカの都市−農村関係を基軸にした、社会編制過程のダイナミズムです。日本においても、熊野地方の農山村をフィールドにした地域調査をつづけています。今年度の研究会では、村的共同性(公共性)と宗教実践をテーマにして取り組む予定です。
落合恵美子 OCHIAI Emiko(文学研究科教授:社会学)
家族とジェンダーという相互に関連し合った二つの分野を中心に、歴史社会学および比較社会学的な方法から研究を進めてきた。すなわち、今、ここ、を相対化する視点だが、家族やジェンダーについても、我々が当たり前と思っているあり方は歴史的に不変ではなく、近代という一つの時代に成立したものにすぎないことを論じてきた。寛容性については、プライバシーの変容との関連を考えている。
田中紀行 TANAKA Noriyuki(文学研究科助教授:社会学)
専攻:社会学史、文化社会学、歴史社会学
マックス・ヴェーバー、ブルデューなどの学説研究をベースにして、 近現代ドイツと日本のケースを中心に社会的資源としての「教養」や文化エリートとしての知識人に関する歴史社会学的研究を行っている。とくに大学知識人世界の形成と変容、およびこれに関連して、教養に関する規範の変容といったテーマに関心がある。
竹沢 泰子 TAKEZAWA Yasuko(人文科学研究所助教授:社会学)
もともと米国の大学院にいたとき、戦時中の隔離・収容された日系人の調査をつづけ、博論にまとめました。近年は、人種を主要な研究テーマとして学際的な研究プロジェクトとして活動しています。この研究会においても、人種、民族論をベースにして貢献していきたいと考えています。
金 承哲 KIM SeungChul(金城学院大学人間科学部:キリスト教学)
専門はキリスト教神学(組織神学)で、キリスト教と他宗教との対話に関心を持っています。他宗教との出会いによって形成される神学的パラダイムの可能性について研究しております。
寺尾 寿芳 TERAO Kazuyoshi(和歌山信愛女子短期大学教授:キリスト教学)
専攻は宗教哲学、諸宗教の神学、比較文明学。
第二ヴァティカン公会議以降の他者に開かれた姿勢をよりいっそう発展させるべく、現代カトリック神学の立場からことにキリスト教と仏教の対話を探っている。最近、比較文明学的な視点を活用すべきだと思いつつあり、同時に「記憶」や「死者の尊厳」という人間学的なテーマにも関心を抱いている。華麗な前衛思想と泥臭い宣教現場をつなぐ「ミッション」たりえれば本望なのだが。
今滝 憲雄 IMATAKI Norio(大阪電気通信大学・近畿大学生物理工学部非常勤講師:キリスト教学)
専攻は宗教哲学(西田哲学と無教会キリスト教との架橋)、教育学(平和、人権教育実践の基礎理論)。
これまでの研究テーマは、内村鑑三の流れを汲む無教会キリスト者、矢内原忠雄(1893−1961)の平和思想について、その信仰と実践との連関性を西田哲学を通じて究明することを試みてきました。その際、矢内原の矛盾的自己(「罪人の首」と同時に、「日本第一の大人」としての自覚を有する)における愛と寛容の思想が、現代社会における未決の問題に、どのように貢献し得るのかといった課題が残されました。よって、本研究会では無教会の信仰と実践の原理の具体化の意義を「ハンセン病」という市民社会における公共的課題(社会復帰や相互交流、相互理解、共生の実現)との関連で究明したいと考えています。
武藤慎一 MUTO Shinichi(大阪府立工業高専助教授:キリスト教学)
専門は教父学、シリア学、解釈学。東方キリスト教思想を研究している。
本研究会では、「地域文化としてのキリスト教―そのマイノリティーとしての自己意識―」をペルシアの賢者アフラハトの著作を通して考察する。
岩野祐介 IWANO Yusuke(文学研究科博士課程:キリスト教学)
関心領域は、日本・アジアのキリスト教思想史。
自らのあり方を反省的に考えざるを得ないという点で、日本のキリスト教はある意味恵まれているのかもしれません。キリスト教、 あるいは各個キリスト者が現代の日本社会において、何らかの積極的な役割を果たし得るのかどうかということは、キリスト教的な家庭で育った私にとって大きな問題となっています。
第8回研究会
日 時:2004年5月8日(土)
芦名 定道(文学研究科助教授/キリスト教学)
【要旨】
本COE研究会(「多元的世界における寛容性についての研究」)では、これまで主に宗教研究(キリスト教思想)と社会学という二つの学問領域で研究を行っている研究者によって学際的な共同研究が行われてきたが(第二回報告書を参照)、2004年度より、新しい段階(セカンド・ステップ)へ研究を進めようとしている。それは、宗教、東アジア、公共性という三つの論点を焦点として、多元性と寛容性という問題を集中的に論じることを意図しているが、本研究報告では、この三つの論点をキリスト教思想研究の観点から具体的にいかに結びつけるのかについて、実例を提示することを試みたい。その意味で、以下の報告は今後の共同研究への問題提起とご理解いただきたい。
現代キリスト教思想に関しては、1960年代以前と以降との間に、つまりほぼ1960年代の半ば頃に、大きな転回を見ることができる。それは、指導的神学者の世代交代として、あるいはエコロジーやジェンダーなどの新しい争点の中に確認できるが、以下論じる「宗教の神学」とはこの新しいキリスト教思想の動きの中心に位置している。その背後には、第二バチカン公会議(1962-65年)とWCC(世界教会協議会)の諸活動というキリスト教会の世界的規模における歴史的動向が存在しており、宗教の神学は、キリスト教会が新しい歴史的段階にさしかかりつつあることを象徴的に指示していると言えよう。これは、多元性との関わりで言えば、近代以降のキリスト教の中心テーマであった教派的多元性から、宗教的多元性−ここでは、多元主義が諸宗教相互の目指すべき関係のあり方を示す規範概念であるのに対して、多元性とは現実の記述概念と考えることにしたい−への展開として見ることが可能であるが、この問題状況がもっとも先鋭的な仕方で現れている地域の一つが、東アジアなのである。東アジアは、宗教の神学を積極的に構築するにふさわしいポテンシャリティを有する地域と言える。
「宗教の神学」とは、「宗教」をテーマとした神学的思索を意味するが、新しい神学の動向としての「宗教の神学」に関して注目すべきは、キリスト教も諸宗教と並ぶ一つの宗教であることを確認した上で−これは神学的には必ずしも自明ではない(啓示と宗教との峻別などにより)−、宗教の積極的な存在意味という観点から神学を再構築しようとしている点、つまり、「宗教」を神学固有のテーマとして位置づけることの必要性の自覚の上に展開されている点である。宗教的多元性は、神学にとって周辺的な事柄ではなく、神学思想にとって決定的な事態として登場してきているのである。
まずヒックの議論を手がかりに、キリスト教による他宗教理解について、類型論的な整理を行い、問題状況の見取り図を描いてみよう。ヒックによれば、キリスト教が他の諸宗教を理解する際の態度として、排他主義、包括主義、多元主義の三つのもの(類型)が考えられる。これらは、宗教的多元性という現実に対する三つの異なる応答と言えるが、第一の排他主義は、「教会の壁の外の救いはない」という仕方で、人間の救済に関するキリスト教の独占性・唯一性を主張するものであって、宗教としてのキリスト教が伝統的に素朴な仕方で取ってきた態度と言うことができるであろう。それに対して、包括主義は、人間の救済にとって有効な働きが他の諸宗教の中にも見出すことが可能であって、仏陀やガンジーなど、他の宗教にも尊敬に値する偉大な人物が存在することを認める。しかし、この場合、こうした宗教的に良きものを良いと判断するのはキリスト教の基準に基づいてであって、他の宗教の偉大な人物が偉大なのはそれらの人々が「キリスト教的」だからである。さらに言えば、こうした偉大な宗教者は「匿名ではあるが実質的にはキリスト教徒なのだ」とまで主張される(カール・ラーナーの言う「無名のキリスト者」がその実例と言われる)。こうした二つの態度は、表明の仕方は異なってはいても、基本的に宗教の価値をキリスト教を基準に考える点で、キリスト教中心的である。こうしたキリスト教中心主義に対して、宗教的多元性の下でキリスト教が取るべき態度として、ヒックが提唱するのは多元主義である。多元主義は、人間の救済にとっては、それぞれの固有の基準を有する複数の道が存在することを承認する(「神は多くの名を持つ」)。多元主義は複数の宗教の存在意味を肯定的に理解する上で、もっとも徹底した態度であるが、問題は、これがキリスト教神学として可能であるかである。
「宗教の神学」は、諸宗教の存在意義を積極的に論じるという性格からして、基本的には伝統的な排他主義を超える可能性の模索の試みであって−もちろん、個々の神学者の信仰者としての本音や実践的な現場での意見がどうであるかは別問題である。というのも、様々な教派間や伝統の差異はあるにしても、キリスト教は他の諸宗教に比較して宣教タイプの宗教という特徴を有するからである−、その点から、多くの論者の立場は、包括主義と多元主義の間に分かれることになる。
次に、こうした「宗教の神学」内部の争点を、キリスト教思想に即して、整理することを試みてみたい。まず、この争点を考える上で注目すべき文献の内、代表的なものを列挙してみよう。
1. John Hick and Paul F. Knitter, The Myth of Christian Uniqueness. Towards a Pluralistic Theology of Religions, Orbis Books, 1987.
2. Gavin D'Costa, Christian Uniqueness Reconsidered. The Myth of a Pluralistic Theology of Religions, Orbis Books, 1990.
3.Pan-Chiu Lai, Towards a Trinitarian Theology of Religions. a Study of Paul Tillich's Thought, Kok Pharos Publishing House, 1994.
4.Christoph Schwöbel, Christlicher Glaube im Pluralismus. Studien zu einer Theologie der Kultur, Mohr Siebeck, 2003.
とくに、注目したいのは、最初の二つの論文集である。タイトルからだけでも、直ちにわかるのは、第一の論文集が、多元主義の立場からキリスト教の唯一性を「神話」と呼んでいるのに対して、第二の論文集では、逆に、キリスト教の唯一性を再考する立場から(排他主義的にとどまるのではなく)、多元主義の方を「神話」としている点である。このキリスト教の唯一性をめぐる二つの立場の相違は、三位一体におけるキリストと聖霊の関係を下敷きにして整理できるように思われる。キリスト教の固有性は、イエスとキリストとの同一視にあると考えることができるが、これによって、キリスト教はイエスの出来事の歴史性に決定的な強調点を置くことになる−仏教におけるゴータマ・ブッダの歴史性の扱いと比較せよ−。この点で、三位一体におけるキリストはキリスト教の歴史性の基盤であり、唯一性・特殊性の原理と解釈することができる。これに対して、聖霊は神の働きが2000年前のパレスチナにおける一回的な歴史的出来事に限定されない広がりを有することの、神の働きの普遍性・遍在性の側面を表していると考えることができる。
以上のように解することができるならば、まず排他主義は、キリストの項に過度な強調点を置くことによって、聖霊の活動範囲をキリスト教会内部に限定する立場と言える。それに対して、包括主義と多元主義とは、聖霊がキリストから独立した独自のペルソナ(位格)であることに基づいて、その活動がキリスト教会の内外に普遍的に及んでいることを承認するものであり、聖霊の項に一定の自立性を認めるものと解釈できるであろう。その場合に、包括主義と多元主義は、キリストの項と聖霊の項という相互に一定の自立性をもった原理の関係についての理解の相違と言えるかもしれない。包括主義は、キリストの項が聖霊の項を基本的に規定するとする立場であり(聖霊は父と子の双方から)、それに対して、多元主義は聖霊がキリストの規制を離れて多様な活動が可能であるとの立場に他ならない(聖霊は父のみから)。こうした整理の是非は別にしても、こうした分析によって、現代のキリスト教思想における「宗教の神学」が一過的な思想上の流行であるにとどまらず、キリスト教の根本に関わっていることが示唆されている点に注目いただきたい。宗教の神学は、キリスト教自体の根本的な再構築に関わっているのである。
ここで、「宗教の神学」の中で繰り返し取り上げられる「宗教間対話」にも簡単に触れておこう。ティリッヒは最晩年の思索の中で、宗教間対話に関して次のような議論を展開している(Paul Tillich, Christianity and the Encounter of the World Religions, 1963 (in:MW.5))。
まず、宗教間対話という場合、その対話には、相互の伝道活動を通した対話、宗教の置かれた文化的伝統を介した影響関係(間接的対話?)、そして宗教者相互による個人的な対話(宗教者間対話)の三つの形態が区別される。これらの中で、ティリッヒが取り上げるのは、第三の場合であるが(これには、ティリッヒ自身が、久松真一などの仏教者と行った宗教者間対話が反映している)、ティリッヒはこの対話の条件として次の4つの条件を指摘する(cf. ハーバーマス)。1.相互に相手の宗教の価値を承認すること、2.対話の当事者がそれぞれの宗教を代表していること(対話に臨む者には、それぞれの宗教に対してなされる質問や批判に責任ある仕方で十分に答える能力が要求される)、3.共通基盤(common ground)が存在すること、4.相互に相手からの批判に開かれていること(「外からの批判を受け入れるということは、その批判を自己批判に変えることを意味する」(332))。
これらの条件はきわめて示唆的である。なぜなら、通常の宗教間対話では、これらの条件は必ずしも満たされておらず、そのために、対話が不毛なままに終始することが少なくないように思われるからである(一種のセレモニーと化し、同じ地点を堂々巡りするだけの「対話」)。多くの場合、こうした対話の閉塞状態の背後にあるのは対話の相手である他者(他宗教)への無関心であって、問題は対話がそれぞれの宗教性の核心から遊離して形式的に行われていることにあるのではないだろうか。すなわち、宗教間対話でそれぞれの宗教に対して問われるべきことは、宗教間対話の必然性(自分たちにとって対話はほんとうに必要なのか。いかなるレベルで必要か)、可能性(自らの内に対話を可能にする前提は存在しているのか)、現実性(対話の具体的な手続き)を自らの宗教的核心に基づいて真剣に考えることなのである。
すでに指摘したように、宗教の神学の問いは、キリスト教神学の核心(三位一体理解などのレベル)に関わっており、宗教の神学を具体的に展開するという課題は、キリスト教の再構築という問題に及ばざるを得ない。東アジアの宗教的多元性の状況下でキリスト教思想に問われているのはまさにこの問題に他ならない。つまり、アジアの状況における新しいキリスト教の創出という問題である。モルトマンは、キリスト教会の歴史的現実を構成する基本構造として、状況適応性と自己同一性の両極性を指摘しているが、この図式を用いるならば、アジアのキリスト教に問われているのは、アジアという宗教的多元性に規定されて歴史的状況に適合することにおいて、新たな自己同一性を実現するということなのである。もしこの状況適応性に関して失敗するならば、それは自己同一性の喪失の危機に陥らざるを得ない。
こうした観点から、アジアのキリスト教を見るならば、インドにおけるキリスト教・アシュラムなどはキリスト教の再構築の良い実例であり、東アジアの文脈で言えば、宗教と家族・家との関わりがキリスト教再構築の重要なポイントになるであろう。また、本COE研究会の共同研究との関連で言えば、公共性とは、この状況適応性と自己同一性の両極が具体的にバランスをとる場の問題(文化の神学のテーマとなる)であり、また寛容とはこの場の質の問題であると言えるかもしれない。今後の研究課題としたい。
キリスト教思想の観点から宗教的多元性にアプローチするに際して、今後とくに留意したいのは次の点である。
まず、すでに指摘したように、宗教的多元性、宗教の神学は、具体的な問題状況に即して論じる必要がある。本研究では、東アジアの宗教的なコンテキストにおいて、この問題を考えてゆきたい。それは、東アジアは宗教的多元性を具体的に論じる上で、最適の文脈と言えるからである。
次に、ティリッヒが対話の条件として挙げていた「共通基盤」の問題から、公共性の問題への展開を試みたい。キリスト教が近代の教派的多元性や教派間対話(エキュメニズム)に取り組んだ際には、対話のための共通基盤は実体的な形で存在していた(正典としての聖書テキストや基礎的な信仰告白などの共有された基盤)。しかし、宗教間対話の場合、こうした実体的な共通基盤を見出すことは容易ではない(あるいは不可能である)。そこで、問題になるのが、諸宗教が共に置かれている公共空間の中で、直面している課題の共通性と、その課題の解決の前提となる公共性である。諸宗教の間の対話は、いわゆる制度的な宗教諸団体に属する人々と、こうした宗教組織の外部に生きる世俗的な人々とが、共通に直面する課題に取り組む中で、具体的に遂行されることが必要なのである。ここに、「何のための対話なのか」という問いに答える手がかりがあるのではないだろうか。
最後に、こうした宗教間対話や宗教多元性に関して必要な理論構築を行うことは、宗教研究の基礎論のレベルで、次のような三つの課題に取り組むことを必要とすることを強調しておきたい。というのも、この点にこそ宗教研究と社会学との学際的研究が実りあるものとなる可能性が存在しているように思われるからである。第一の課題は、流動的に変化し多様な形態をとる宗教動向を適切に記述し分析するのに有効な宗教概念を構築すること、つまり、宗教的多元性において宗教とは何か、という問いに答えることである。第二の課題は、世俗社会において、なぜ宗教なのかに答えること、つまり、宗教批判に答えることであり、これは宗教間対話の意義を明らかにするという点に関わっている。そして、これらの二つの課題に答える中で、そもそも宗教的多元性にはいかなる意義があるのかという第三の課題に取り組むことが可能になる。こうした相互に絡み合った基礎的な諸問題に、公共性概念を手がかりにアプローチすることが、これからの本COE研究会の中心テーマの一つになるのではないだろうか。
1.『ティリッヒと現代宗教論』北樹出版、1994年。
第四章「ティリッヒと宗教の神学」pp.197-246。
第五章「結び−キリスト教と宗教の未来−」pp.247-268。
2.「キリスト教と東アジアの近代化」、『アジア研究所紀要』、第25号、1999年、pp.137-162 亜細亜大学アジア研究所。
3.「「宗教の神学」の現状と課題」、『宗教学会報』No.11、2000年、pp.29-56、大谷大学宗教学会。
4.土井健司、辻学氏との共著
『現代を生きるキリスト教 もうひとつの道から』、教文館、2000年。
第二部第4章「キリスト教は寛容でありうるか?」
第5章「民族主義と平和」
(『改訂新版 現代を生きるキリスト教 もうひとつの道から』、教文館、2004年、第4章「多元化・グローバル化とキリスト教」)
5.「南アジアのキリスト教の諸問題」、『アジア研究所紀要』第27号、2001年、pp.191-218、亜細亜大学アジア研究所。
6.「キリスト教思想と宗教的多元性」『宗教研究』第75巻、329-2、2001年、pp.199-245、日本宗教学会。
7.「東アジアの宗教状況とキリスト教−家族という視点から−」、『アジア・キリスト教・多元性』創刊号、2003年3月、pp.1-17、現代キリスト教思想研究会。
8.「第一節 宗教的多元性とキリスト論」
「第七章 現代思想とキリスト論」、水垣渉・小高毅編、『キリスト論論争史』日本キリスト教団出版局 2003年7月 pp.531-542
9.「宗教的多元性とキリスト教の再構築」、星川啓慈・山梨有希子編、『グローバル時代の宗教間対話』、大正大学出版会、2004年2月、pp.121-157。
10.「死者儀礼から見た宗教的多元性−日本と韓国におけるキリスト教の比較より−」(金文吉・釜山学国語大学教授との共著)、『人文知の新たな総合に向けて(21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」)』第二回報告書V[哲学篇2]、2004年3月、pp.5-23。
《報告2》
【要旨】
1 公共性の二つの構成要素
@ フセインの口の中を調べることについてのジョーク
A 公共性の二つの構成要素 自由と開放性
自由が出現したのは・・・・・・彼らが「挑戦者」となり、自らイニシアティヴをとり、そのことによってそれと知ることも気づくこともなしに、自由が姿を現わすことができる公共的を彼らの間に創造し始めたからである。「私たちが一緒に食事をとるたびに自由は食席に招かれている。椅子は空いたままだが席はもうけてある」(Arendt)
2 現在の困難
@ 楽園と力――ケーガンの議論を手がかりに
- ジャングルの中に熊(説得不能な他者、ならず者国家)が跋扈していると想定している者(米)は、銃を持ち、熊と出会ってしまったときには、実際に戦うだろう。だが、ナイフしかもたない者(欧)は、熊と対面することを恐れるだろう。そして、熊などごくわずかしかいないと主張することだろう。果ては、熊の存在そのものを否認しさえするだろう。
- アメリカの軍事力によってヨーロッパの内外の安全が保障されているがために成り立っているということ、そしてそのことをヨーロッパが自覚していない。
- ヨーロッパ――必然的合意の想定 ハーバーマス
- アメリカ――アイロニスト ローテイ
- アイロニストたちの公共的な連帯――共通に忌避すること(屈辱)の回避によって。互いの「小さきこと」の尊重(非侵害)
- 社会空間が、互いに通約しえぬ「第三者の審級」の作用圏に分解している状態。
A MADの終焉――ローティ的世界の真実
- プッシュ・ドクトリン 先制攻撃という防衛
- MADを成り立たせていたもの。――相手がmadかも知れないという<不確実性>
- プッシュ・ドクトリンにおいて失われているもの。<不確実性>に対する感受性。
- しかし、絶対に解消しえない<不確実性>は、他者の他者たる所以、未来の未来たる所以ではないか。アメリカは、逆に、他者の他者性(<不確実性>)におよそ耐えられないところに来ている。
- 不確実な他者の存在そのものが、自らの「小さきこと」への脅威であると感じられているとしたらどうであろうか。
- 極限の寛容の極限の不寛容への転回。その原因は?
B 遠くかつ近い
- <不確実性>と最小限の疎外
- 『ゴースト・オブ・マーズ』(ジョン・カーペンター)――9・11テロの意図せざる隠喩。
- オウム、サリン
- 敵たる他者の内在
3 補助線
@ 1995年の沖縄
- 10.21県民総決起大会
- 知事選挙の以外な結果
- 95年の運動が異様な喚起力をもったのは、すべての沖縄県民が、米軍が駐留していることに由来する、それぞれに多様な苦難を、少女の暴行の悲劇に投影することができたからである。
- 暴行事件が公共化の作用をもちえたのは暴行レイプが、決して公共的に表現されえない、個人の内的な核に対する冒?だったからではないか。
A ホモ・サケル
- 清教徒革命――一種の民主化運動。「Kingのためのkingと戦う。」「王の二つの身体」論。
- ホモ・サケル(1)彼を殺害しても罰せられることはない。(2)犠牲に供することができない。アガンベンによれば、「主権」の源泉。
- ローマ皇帝の葬儀
- 生き延びてしまった「捧げ者」
- 生それ自身の中に、死を越えて生き延びる生が内在しているとする感覚。
B 1995年の神戸
- たまたま十分早く起きたがために、生き延びた女性の例。
- 「私こそ死者(夫)だったかもしれない」「死者(夫)こそ私だったかもしれない」
- この女性は、生き延びた「捧げ者」と同じホモ・サケルである。
- 根源的偶有性 「私はどうしようもなくこの私である」=「私は他者だったかもしれない」
C 「為しうる」ということ
- 身体麻痺に陥った女性
- アリストテレスのデュナミス/エネルゲイアの論。「]を選択する」=「]をしない」という潜勢態(受動性)の締め出し。
- 日本語の「自動詞」と「他動詞」 受身−自動詞−他動詞−使役
- 受身・尊敬・可能・自発 (R)ARERU−ある(ある自体が主体のコントロールを超えたところで生じている)
- 自動詞によって表現されている行為は、<私>の行為でありながら、<私>の制御の及ばないこととして生起しているように感覚されている、ということである。
- 「何かができる」ということの自覚の内に、他者性が、その行為が他者に帰属し、他者の選択に規定されているという感覚が、含まれているということ。
4 <普遍的公共性>の可能条件
@ 本源的受動性
- <私>が行為しているとき、<私>に内在している他者が、その行為を選択し、決定している。
- なぜ他者を殺してはならないのか? その他者がホモ・サケルであった場合には、心置きなく、殺すことができるだろうか?
- 殺されることをあからさまに拒否している身体よりも、そうした拒否を表面には示していないような身体を殺してしまうことが、より一層悪いことであると、人は感ずるだろう。
- 顔――「汝、殺すなかれ」(レヴィナス)
- 身体の求心化作用/遠心化作用
- 他者の受動性が、その他者への<私>の能動的な働きかけを、(能動的に)触発している、という循環。他者が無防備な受動的な対象としてあること、極論すれば、他者が殺されうる者としてあること、そのことこそが、<私>の行為が、その他者への働きかけとして存在しうることの必須の条件なのだ。殺人の不可能性の究極の根拠。
A ホモ・サケルとしてのキリスト
- 主権者の身体とホモ・サケルの身体の共役性。
- 沖縄の少女の先に、キリストの磔刑を見る。
- 人類のすべてのメンバーは、その個別の苦難を、十字架上のキリストの苦難に投射することができる。ハイデガー批判。神学理論上は、ここに理想的な<普遍的公共性>が実現している。
- 神は、人間を赦すにあたって、なぜ、自らの子を殺す必要があったのか? そんな回りくどいことをせずとも、神は、直接、人類を赦してくれればよいではないか?
B 神の回りくどい赦し
- すべての人に貫く、内的な他者性において普遍的に連帯する。公共空間の実現を阻んでいる究極の原因こそが、其の<公共性>の条件である。
- ホモ・サケルはその双子のパートナーとして、主権者=第三者の審級を外部に切り離すし、共同体を閉鎖してしまう。
- キリスト殺害の意味。超越的な神自身が、死んでしまう。神の内在的な人間(可死的人間)への還元。
- 超越的なものを首尾よく空無へと至らしめるためには、超越的なものが、つまりキリストが現象しなくてはならない。そして、殺害されるという事実を経由して、その実質を変容させなくてはならない。
- 聖霊。キリストが、一種の「捨石」として、否定的に介入しなければ、聖霊はその作用を発揮することができない。→人間=信者たちの<普遍的な公共圏>
C普遍的公共性の条件――二つの水準の内なる<他者>の重なり
- われわれの誰もがかかえる内在的な亀裂において、つまり誰もが他者であるというそのことにおいて、連帯すること。
- 超越的な他者(第三者の審級)もまた、自己充足的な同一性を有するのではなく、他者性に貫かれているということ、他者性を懐胎させているということ、この事実を開示することにある。
D 空無化した第三者の審級とは誰のことか? たとえば未来の他者。
5 実践的提言
@ 民主主義の二つのアイデア
A もうひとつの民主主義
◇第9回研究会
【日時】
6月26日(土)13:30−16:30
【場所】
京都大学文学部新館5階社会学共同研究室
【報告1】
報告者:金 承哲 氏(金城学院大学教授)
題 目:宗教多元主義について
【報告2】
報告者:阿部 利洋 氏(日本学術振興会特別研究員/京都大学)
題 目:証言公聴会における対話と和解――その逆説的効果について
今年度から新たな先生を研究会メンバーにお迎えし、三年目の研究プログラムがはじまりました。定例の研究会は、二ヵ月に一度のペースで開かれる予定ですが、普段お会いする機会の少ない他領域の先生方との交通で生じる知的刺激を、このニューズレターの刊行を通じてお伝えすることができればと思っています。
21世紀COEプログラム
京都大学大学院文学研究科
「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「多元的世界における寛容性についての研究」研究会
tolerance-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp