21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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Newsletter No.8

2004/07/30

contents


■活動状況

 第9回研究会

日 時:2004年6月26日(土)

《報告1》

宗教多元主義について
― 多元的多元主義を目指して ―

金 承哲(金城学院大学教授/キリスト教学)

【要旨】

T.宗教多元主義の現状

1)E・トレルチ、「諸世界宗教におけるキリスト教の位置」

「神の生命はわれわれ地上の人間の経験のなかでは「一つのもの」ではなく、「多くもの」なのです。そして、「多くのもの」のなかにひそむ「一つのもの」を予感すること、これが愛というものの本質なのであります。」

2)J・ヒックとP・ニッター、キリスト教と他宗教の関係=「一と多」の関係

「神中心的多元主義」(Theocentric Pluralism)
「実在中心的多元主義」(Reality-centered Pluralism)
「統一的多元主義」(unitive pluralism)
「偉大な世界宗教は、一つの神的実在に対して、互いに異なる歴史的・文化的環境の中で形成された異なる自覚を具体化したものである」(John Hick, God has Many Names)
「多が一になるように要請されている。しかし、その一は、多を呑み込むような一ではない。多は厳密に多として残るまま一となる。多に属しているそれぞれが他者に対して独特な寄与をし、したがって全体に独特な形で貢献する時「一」が生じるのである。これは、多が互いの中に、そしてより大いなる全体の中で等しくしみ込み一に集中することを目標とする過程である。」(Paul Knitter, No Other Name?)
「世界の諸宗教は、すべての人類において働いている普遍的啓示の具体的な、多様な、また独立した顕現である。」(ibid.)

3)問題提起:
  1. 「統一的多元主義」と他宗教の他者性の問題。
    キリスト教と他宗教を「一」と「多」の関係の中で位置づけようとする試みは、「一」への独善的占有を主張してきた今までのキリスト教の立場の延長ではないか。
  2. アジアのキリスト教者において、他宗教はキリスト教と並列的に位置づけられるものではなく、いわゆる「内なる他者」である。

U.「統一的多元主義」における「一」への執着

1)他宗教に対するキリスト教の態度:「排他主義」、「包括主義」「多元主義」と分類しているが、こうした三つの立場を貫く一つの共通点は、それらが「一」をめぐる考え方だという点である。こうした意味で「統一的多元主義」は、他者を排除することによって自分の同一性=正体性を確保しようとする試みの変容された形にすぎない。

  1. 排他主義:「一」を独占するあまり他宗教を排除する。
  2. 包括主義:「一」を独占しながらも他宗教をその「一」の範囲の中に入れる。
  3. 多元主義:すべての宗教現象を「一」へ至る多様な通路として把握する。

    「教会の外には救いがない」 → 「キリスト以外には救いはいない」 → 「キリスト教以外には救いがない」

    「教会中心主義」 → 「キリスト中心主義」 → 「キリスト教中心主義」

    もし、ラーナーの「匿名のキリスト教」=「キリスト論的帝国主義」という批判が妥当であれば、「統一的多元主義」は「神論的帝国主義=存在論的帝国主義」と批判されるのか。(ex.「神学的エスペラント語」Leonard Swidler)

    2)John Hick, The Rainbow of Faith. Critical Dialogue on Religious Pluralism. (『宗教がつくる虹』)

    哲学者=フィルと神学者=ジョンの間の対話:宗教多元主義に対するポストモダニストからの批判

    1. 宗教多元主義は「ポスト啓蒙主義的合理主義の産物」なのか。「諸々の世界信仰は同一の究極のリアリティに対して異なる応答を示したもの」
    2. 宗教多元主義は「一つの世界」という「現代思想におけるグローバル志向の産物」(Hick)
    3. 宗教多元主義を一つの「政治的コスモロジー」に根ざしたイデオロギーとみる見解。つまり「西側諸国の文化帝国主義」ではないか、という批判。「宗教多元主義がグローバルな資本主義のイデオロギー」との「複合した共犯関係」を疑う立場。

    Kenneth Surin:

    (宗教多元主義は)真の「他者」を構成する根本的で歴史的な特殊性を、効果的に分解したり隠蔽したりすることに役立つ。非キリスト教徒である「他者」を排除したり征服したりすることを正当化するために、キリスト教的野蛮性がその「優越性」を仮定するような場合に、この独善的な「宗教多元主義」は穏やかに、しかし平然と「世界エキュメニズム」の名の下に、「他者」を――如何なる「他者」をも――飼いならし、同化するのである。

    John Hick:

    宗教が異なった問いを持つのは当然のことですね。しかしこれらの問いは、種的には異なっていても、類的には同じであると、私は言いたいのです。それらはすべての現在の深い欠乏と、そして根本的により良い未来の可能性とを前提としています。そして、それらはすべて、どうすれば、前者(現在の深い欠乏)から後者(根本的により良い未来)へと移り行くことができるかという問いに対する答えなのです。

    (課題)「グローバリゼーション」という全世界的現象の中で宗教とは何か。

    ※ヒックやニッターの宗教多元主義が「一」に執着しているという批判は、ポスト多元主義のことを探し求めるためであり、多元主義以前のものに戻るために行われるものではない。

    V.「多元的多元主義」(plural pluralism)への提案

    1)「一」から「他者」へ

    宗教多元主義の神学においても依然として残っている「一」への執着
    脱構築主義神学(Mark C. Taylor)
    「ロゴス中心主義」(logocentrsim)の克服と「他者」の復権
    「他者への集中、他者の発見」としてのポストモダニズム(David Tracy)

    Cf. E・サイード、『オリエンタリズム』; 彌永信美、『幻想の東洋:オリエンタリズムの系譜』

    2) 自分の中の「他者」の発見やその「他者」との真剣な出会いとしての宗教

    1. 他者としての神
    2. 他者としての死
    3. 他者としての他人

    「神を愛し、隣人を愛しなさい」というイエスの呼びかけは、結局、「他者」との真剣な出会いへの呼びかけであろう。

    「目に見えない」絶対他者としての神と死を所有しようとする試み → 不可能性の自覚 → 「目に見える」現実的な他者としての他人を所有することによって自分の永世不滅を保障しようとする。(=「支配の心理学」 Mark C. Taylor)

    こうした意味で、内なる他者として他宗教との出会いによって形成される「他宗教の神学」は、ただアジア的キリスト教神学の形成という枠組みを超えて、宗教の本質そのものに当たる宗教的行為であるのではないか。

    「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブライ人への手紙13・2)

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    《報告2》

    移行期社会と宗教の変容
    ― 南アフリカにおける和解の模索 ―

    阿部 利洋(日本学術振興会特別研究員・京都大学/社会学)

    【要旨】

    ●報告の位置づけ

     アパルトヘイト後の南アフリカという変動期に置かれた社会を取り上げ、そこで和解という社会的目標をめぐって宗教的な動機や価値観がどのような変容を見せてきたか、という点について報告を行った。宗教多元主義というテーマとともに、宗教の変容という観点をあわせて考察する際のヒントを得ることを目的とした。

    ●具体的な参照対象:南アフリカの真実和解委員会

     これまで多様な形態のもとで実施されてきた真実委員会 Truth Commission の諸事例は、過去に生じた重大な人権侵害(拷問・誘拐・殺害・強姦その他)を調査し、その結果を記録として残し、(基本的には)公的アクセスが可能となるように情報を整備することと引き換えに、重大な人権侵害に責任を問われる個人や組織の裁決・処分を留保する、という課題を共有している。そうした先行する委員会の中でも、これまでもっとも実験的な試みであったと言われるものが、南アフリカの真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission of South Africa、以下TRC)である。南アフリカにおける政権交代は、武力行使を通じた勝敗決定による紛争終結ではなかったために、その後の紛争当事者たちの扱いは一括免責と徹底した訴追のあいだで揺れ動くことになった。TRCという選択肢は、そうした両極端な過去処理を排するなかで、さらに、複数の立場にまたがっていた紛争対立に起因する多元性を撚り合わせる必要性に見合うよう配慮されたものだった。移行期と称される社会状況の特徴としては、「勝者と敗者が明確でなく、過去にたいする一元的な権威・判断を体現する政治勢力が確立しない」点、および「総体として自己正当化が保証される組織や集団がない」点を指摘することができる。

    ●和解の理念とキリスト教的背景

      TRCの理念やスローガンは、社会的属性(人種・民族的カテゴリー)や政治的立場を異にするさまざまな支持者たちの口から語られ、その語りの多様性がまた、TRCをめぐる論争をひきだすという構図をもっていた。たとえば和解という理念をひとつあげても、その用語使用それ自体には同意を示す国民党NP(アフリカーナーとカラードの多くを支持集団とする)の政治家は和解を現政府による補償の問題として議論を進めようとし、イギリス系のリベラルな論者たちは「真実=事実」(と前提し、そ)の捜査と記録を和解に優先するものとみなし、パンアフリカニスト会議に連なるラディカルなアフリカ人たちは正義(社会的格差是正)のつぎに和解をとりあげるよう要求し、ズールー・ナショナリズムをかかげるインカタ自由党の政治家は「理念(和解)は認めるが、組織(TRC)は認めない」と頑強に反発しつづけた。このような概念理解は、(民族や政党としての)補償や責任問題、アファーマティブ・アクション(など法制度改革や税金支出)の論拠、(直接的には教育の場で)公定される歴史認識、さらには組織にたいする調査・捜査をどこまで許容するかといった事柄につながってくるために、論者それぞれの立場に応じて細かく細分化されることになるのである。
     TRCに体現された和解という目標は、上述のような立場的相違にもとづく無数の批判に対して、キリスト教的な背景をもつ二つの強力な言説によって擁護された。その二つをここでは、「ウブントゥ ubuntu 」と「回復する正義 restorative justice 」の二つとして紹介する。
      英語ではhumanness/personhood、日本語ではおおよそ人間性(思いやり、共感)と訳されるウブントゥは、「人は皆を通して皆のために人となる」のように用いられ、いくぶん冗談めかして「われ思うゆえにわれありではない」と付け加えられる言葉である。委員長ツツはこの語をしばしば用い、証言者の側からもウブントゥに言及するケースが見られた。ケープ郊外のググレトゥで開かれた公聴会では、息子を警察に殺された母親ノンブヨ・ンゲウは、和解とは加害者の人間性を回復することと考えていると言い、「ひとつの悪を別の悪で置きかえたくない」とした。彼女を含めた、事件によって息子を殺害された母親たちもその後「ウブントゥを希望」し、殺害者である警察官をコミュニティに再び受け入れるつもりであることを認めた。
      他方で、上述のツツとは異なり、より社会的正義――資源の再配分や補償問題など――を強調する立場があり、その代表的な論者としてTRC研究部長をつとめたビラ=ビセンシオがいる。彼もキリスト教的な背景をもっているが、「そのことが、あなたの仕事(注:TRC研究部長の職務)にどういう影響を与えているか」と記者から尋ねられた際には、「神学的な用語をほとんど使うことのない世俗的な仕事に従事しているいまこそ、これまでで最も神学的な活動をしていると感じる」と答えていた。そこでは和解の理念にかんして、回復する正義restorative justiceという理解から擁護する主張が展開され、「回復する正義という指針は、被害者・加害者・コミュニティがともに回復する方向性を模索し、うながすものであり、これは従来の司法に欠けていたものだ」とされたのである。
      和解という理念は、1994年の政権交代時になって現れたものではなく、1980年代をつうじて特にキリスト教的な背景をもつ解放運動グループのあいだで盛んに議論されていた。そして、アパルトヘイト期に和解を唱えることは、それ自体が現状維持に寄与する否定的効果をもつのではないかという懐疑的な視線を浴びることでもあった。つまり、当時から、解放運動に関与する教会関係者のなかには、一方で「和解を呼びかけ、赦しを語る」言説があり、他方で「あくまで正義を唱え、社会分析と体制変革の必要性を主張する」言説があったということであり、その立場の対照性はそのままTRCを通して表明されるにいたったと見ることができる。
      ところで、上で取り上げたふたりの政治的スタンスには、両者の神学的スタンスに対応する部分もある。両者ともに、解放運動に関与するなかでラテンアメリカの「解放の神学」に共鳴し、そこからツツは自身の文化的背景と反植民地主義思想をとりこんでアフリカ神学の方向で発展させ、ビラ=ビセンシオはボンヘッファーの神学を取り込んで体制変革の実践にくわわってきた。ツツはかつて、「ヨーロッパ人と宣教師の世界観にそぐわないすべてのものを否定する帝国主義と人種差別主義にキリスト教会が浸ってきた」事実を考えれば「神を語るために、われわれ自身の文化的メタファーを使う方法を発展させるべきだ」と主張した。こうしたツツの神学的背景に触れるとき、TRC活動について「法的な正当性が十分でない」とみなす視線や、「ウブントゥの概念はアフリカ的な要素を強調しすぎではないか」とする批判は彼にとって何ら新鮮なものではなく、それゆえどことなく意図的に自身のスタンス――文化的シンクレティズム――を強調しているような印象もうける。ひるがえって、ビラ=ビセンシオは1992年に出版された『再建の神学 A Theology of Reconstruction』のなかで、その神学の出発点を次のように定めた。「宗教と法の関係は、神学の進化にとって決定的に重要である。生活のただなかに、つねに神を新しく顕現させること、と同時に、日常のなかで神の顕現を識別すること。これはながらく神学の問題であり続けてきた(…)ボンヘッファーはこの顕現を、非宗教的な仕方で語る必要があると考えた。(…)それは世俗的な言説を通じて、法の支配と、社会変化の基礎を与える解放的な法の創出に寄与することになる」。彼にとって、TRCとそれにつづく活動が「解放的な法の創出」プロセスの一環であることは疑い得ない。そこに見られる神学的実践は、解放闘争から法システムへの働きかけという変遷に顕著なかたちの政治的世俗主義であったといえるだろう。

    ●簡単な考察

      南アフリカの和解をめぐる社会的実践から考察される点として、次の3点を取り上げた。

    「宗教の復活」概念について
      従来、宗教の復活という文脈で取り上げられてきた諸事例と、本報告で扱ったTRC活動の違いは以下のように把握される。TRCは民族主義的な宗教ナショナリズム(例:ヒンドゥー・ナショナリズム)でも、アンチ西洋近代としての宗教原理主義(例:イスラーム復興運動)でもないかたちでの国民統合を求めるものであり、それはまた、アメリカにおけるキリスト教右派のような政治勢力にみられる、宗教的背景を前面におしだして社会秩序を要求する運動とも差異化されるものである。

    「宗教の変容」概念について
      デリダはTRCを論じながら、そこから「今日では、このような赦しの場面は、地球上で増えてきていて、(…)このような赦しの場面の一般化が何を意味するかについて問わなければなりません」(『言葉にのって』)と問題設定をおこない、別の場所では「(…)赦しの「世界化」は、(…)潜在的にキリスト教的な、(…しかし)キリスト教会をもはや必要としないキリスト教化の過程に似てくる」という解釈を提示している(『現代思想』2000年11月号)。ここで、デリダの解釈については、@社会変動が宗教を変容させるという図式――(宗教の側からの、社会にたいする)同化的図式――ではなく、A宗教が社会にたいして抵抗し復興するという図式――分離独立的図式――でもなく、もちろんB前近代的な宗教優位の図式でもないかたちでの、C宗教的な形式が社会にたいして働きかける図式として理解されるべきではないか。

    多元性と変容
      宗教間対話や宗教多元主義が論じられる際には「差異と共通性」がひとつの参照項とされているように思われる。他方で、本報告でとりあげたような紛争後・移行期社会における和解と社会秩序の模索に関して、「文化的シンクレティズム」や「政治的世俗主義」とみなしうる現実がある。こうした現実を目にする際に、どこまでの変容が同一性の範疇として許容されるのか。あるいは、同一性の維持が重視されない場合、固有の属性(例:キリスト教(的であること))を維持し続ける意味・意義・機能をどのように考えることができるだろうか。

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    ■次回研究会の予定 

    ◇第10回研究会

    【日時】

    9月25日(土)13時30分−16時30分

    【場所】

    京都大学文学部新館5階社会学共同研究室

    【報告1】

    報告者:蘭 由岐子 氏(賢明女子学院短期大学)
    題 目:ハンセン病政策史と病者の経験

    【報告2】

    報告者:今滝 憲雄 氏(大阪電気通信大学)
    題 目:「ハンセン病」問題とキリスト者――<公共性>の可能条件再考


    編集後記

    ニューズレター第8号をお届けします。
     昨年に引き続き、今秋も国際シンポジウムが計画されています。今回は、釜山外国語大学のご協力を得て韓国での開催となります。プログラム等の詳細は、次回の研究会およびニューズレター等で、またあらためてご案内できることと思います。メンバーの皆様からのご協力を賜りますようよろしくお願い申し上げます。
     次回研究会では、ハンセン病を共通のテーマとして社会学とキリスト教学双方からの報告が予定されています。ぜひご参加ください。

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    「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
    「多元的世界における寛容性についての研究」研究会

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