【日時】 2003年10月25日(土)14:00−17:30
【会場】 京都大学文学部新館 第7講義室
i 本シンポジウムの趣旨、プログラム、会場へのアクセス等に関しては、案内チラシ[PDF]もご覧ください。
1990年代以降、世界における紛争は、宗教や民族と様々な結びつきのうちで発生し、宗教はその際にしばしば衝突の主要な原因のひとつとして挙げられている。もし、本来宗教が平和を目指し、紛争の解決を目標とするものであるとするならば、それぞれの宗教が自らの伝統から未来の世代のためにいかなる平和思想を構築するかは、各宗教に課せられた責任と言えるであろう。また宗教的多元性を背景とした宗教間対話の意味は、平和など、社会全体が共有する諸問題に対して、積極的に寄与することにうちに、見いだすことができるように思われる。本シンポジウムでは、こうした問題意識に立って、宗教が平和思想の構築に対して何を語りうるのか、何をなし得るのかについて、それぞれの学問と実践のフィールドから発言と討論を行い、問題の理解を深めることを意図している。
本シンポジウムの討論は、次のような観点を含むことになる。
(1)東アジアという視点
(2)宗教的多元性と寛容という観点
(3)平和思想と宗教間対話との関わりという観点
シンポジウムでは、日本と韓国において宗教間対話に関心をもって研究や活動を行ってきた3人のパネラーを迎え、それぞれの立場からの堤題をいただく。これらの堤題を基礎にして、二人のコメンテーターからコメントの後、フロアーからの質疑を含めて、活発な討論を行いたい。
シンポジウムの趣旨説明
芦名定道 (コーディネーター・京都大学大学院文学研究科助教授・キリスト教学)――「宗教的多元性と平和思想−キリスト教の場合」
第1部:パネラーからの堤題
- 「日本仏教者と平和思想」 ―― 氣多雅子(京都大学大学院文学研究科教授・宗教学)
- 「内村鑑三の平和思想と朝鮮無教会の動向」 ―― 金 文吉(釜山外国語大学教授)
- 「朝鮮仏教の対話と平和思想」 ―― 許 油(大韓仏教研究所所長・法然院住職)
第2部:討論
- コメンテーターからのコメント
落合恵美子(京都大学大学院文学研究科助教授・社会学)
岩城 聰(京都大学大学院文学研究科博士後期課程・キリスト教学)
- 討論
- フロアーから
芦名定道(京都大学大学院文学研究科助教授)
本シンポジウムは、京都大学大学院文学研究科を中心に進められている、21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」(研究班「多元的世界における寛容性についての研究」)の研究活動一環として、「宗教間対話と平和思想の構築−現状と課題−」というテーマの下で開催されるものであるが、このテーマの意味、あるいはシンポジウムの意図について、簡単に説明していきたい。
1990年代以降、世界における紛争は、宗教や民族を背景にして発生し、宗教はその際にしばしば衝突の主要な原因の一つとして挙げられている。もし、本来宗教が平和を目指し、紛争の解決を目標とするものであるとするならば、それぞれの宗教が自らの伝統から未来の世代のためにいかなる平和思想を構築するかは、各宗教に課せられた責任と言えるであろう。また宗教的多元性を背景とした宗教間対話の意味は、平和など、社会全体が共有する諸問題に対して、積極的に寄与することにうちに、見いだすことができるように思われる。本シンポジウムでは、こうした問題意識に立って、宗教が平和思想の構築に対して何を語りうるのか、何をなし得るのかについて、それぞれの学問と実践のフィールドから発言と討論を行い、問題の理解を深めることを意図している。本シンポジウムの討論は、次の三つの観点を含むことになる。
(1)「東アジア」(日本と韓国)という視点
(2)「宗教的多元性と寛容」という観点
(3)「平和思想と宗教間対話との関わり」という観点
これらの観点のいずれに焦点を合わせるかは、それぞれの提題者にお任せするとして、シンポジウム全体としては、政治的政策的な視点から現実主義的に平和を論じると言うよりも、むしろ数十年という時間の中で、宗教的多元性の状況下にある諸宗教が平和思想の構築に対していかなる貢献をなし得るのか、という問題を論じたい。
次の論的に留意して、提題あるいはその後の討論を行っていただきたいと思います。
- 日本と韓国、キリスト教と仏教における平和思想の実例とその将来的な可能性。
- 平和思想の構築にとっての宗教間対話の意義。
- 宗教的多元性は、いかなる思想的意味を有するか、とくに、それぞれの宗教にとっていかなる意味があるのか。
芦名定道
以上の趣旨をより具体的に説明するために、キリスト教と平和思想との関わりを、日本のキリスト教の事例に即して簡単に考察しておきたい。
キリスト教と平和との関わりについては、福音書にイエスの言葉に見られるような徹底的な平和主義から、歴史上繰り返されてきたキリスト教世界を防衛するという大義名分に基づく正戦論まで、一見するとまったく正反対の立場が混在しており、問題の理解を困難にしている。おそらく、この問題状況は、キリスト教の原則(理念)と歴史的状況下での現実とのギャップという点から理解できるのではないだろうか。このギャップがもっとも鮮明なものとなるのは、国教会体制においてである。つまり、キリスト教は、ローマ帝国による国教化以来、国家の戦争政策を巻き込まれ、しばしば、自らの原則に反して国家の戦争を正当化する役割を果たすことになったのである。
こうした一般的枠組みにおいて、明治以来の日本のキリスト教を見るとき、キリスト教が困難なジレンマに陥っていることがわかる。キリスト教は、日本における宗教的多元性の状況(複数の宗教の混在状況)の中の少数者であり、この状況下で、とりわけ明治期のキリスト教の指導者たちは、欧米の国教会的なキリスト教をモデルとした教会形成を目指してきた。それは、近代的な明治国家の形成に積極的に寄与することによって、キリスト教を日本に根付かせ、日本をキリスト教国家にする、という理想の追求に他ならない。その結果、日本のキリスト教は、国教会であるどころか、宗教的多元性の状況における少数者であるにもかかわらず、明治国家の近代化政策、とくにアジア膨張政策に対する批判的な視点を十分に展開することができなかった。このような日本のキリスト教会の置かれた状況において、キリスト教の原則に基づく平和思想を展開したものとして注目できるのが、内村鑑三から始まり、矢内原忠雄、南原繁らの、明治から昭和にかけての日本の平和思想をリードした思想家を輩出した、無教会の伝統である。無教会の思想家は、大学を中心とした知識人として、聖書研究を基礎にした政治思想の担い手となり、その影響は日本の政治思想の全般に及んでいる。
彼らのキリスト教的な平和思想が近代日本における貴重な精神的遺産であることは疑いないものであるが、それを批判的に継承することを試みる場合に、次の点に留意することが必要である。
- 無教会の思想家は、日本的な宗教的伝統とどのような関わりをもってきたのか。とくに、天皇制との関わりにおいて、無教会的伝統には批判すべき問題点があったのではないのか。
- 無教会的キリスト教は、日本における宗教的多元性の状況をいかに理解してきたのか。彼らは、他の諸宗教との対話という視点を持ち得たのか。
- 平和思想の形成という点における最大のポイントの一つは、教育にあると思われるが、無教会的伝統が大学という場に、その活動の中心を設定し、学生の思想形成に関与したことは、この平和思想の教育という観点から、どのように評価できるのであろうか。
宮田光雄 『平和の思想的研究』創文社
『非武装国民抵抗の思想』岩波新書
パウル・ティリッヒ 『平和の神学 1938-1965』新教出版社
起草者:E・ブッシュ、小川圭治、佐藤司郎、鈴木正三、武田武長、寺園喜基、南吉衛、森岡巌(日本K・バルト協会、日本D・ボンヘッファー研究会)
(『福音と世界』2008年8月号 新教出版社、72頁)
氣多雅子(京都大学大学院文学研究科教授)
まず、現代世界における平和思想の構築に関して日本の仏教者はどのような寄与をなしうるか、という問題を考察するために、市川白弦の思想と行動を取り上げてみたい。市川白弦は臨済宗妙心寺派の僧侶であり、後に還俗したが、太平洋戦争時における仏教者の戦争責任について最も徹底して考えたのはこの人であろう。白弦の言動は、仏教者が戦争と平和の問題に関してとりうる態度の一つの典型を示しているように思われる。
市川白弦は、仏教者の戦争責任をいくつかのレベルで追究し反省している。
まず、自己自身の戦前、戦中、敗戦時における行動と思想に対する反省である。次に、他の個々の仏教者について、戦前・戦中の言動および戦後の言動を取り上げた批判である。さらに、日本大乗仏教の発想法と論理そのものに、体制を擁護し現状肯定へと促し、結果的に戦争を是認してゆく機能が含まれていることを批判する。それらの機能が天皇制と日本人の内なる天皇制的エートスと深く結びついており、仏教は、第一に日本民族皇民化のための教学の役割を果たし、第二に台湾、朝鮮の人々に対する皇民化の運動に協力するという形で、「皇道宣布のための滅私奉公の十字軍」として働いたと考える。そして、仏教の差別即平等の論理は、戦後なお、日本政府の在日朝鮮人への同化教育政策への仏教徒の支持のなかに作用していると指弾した。
この戦争責任への反省を導きとして、白弦は仏教思想の中で平和の問題を考えていく。
仏教において平和という事柄は、まず「安心立命」という究極的な心の平和として追求される。それは、現実世界の有為転変の脅威と不安に押しつぶされることなく、襲来してくる事態と一つになる実存の境位であって、そこに、生命の危険や境遇の不自由から徹底的に脱却した自由が存するわけである。白弦は、この安心の道が現実と和解し受け入れる受動的な生活態度に結びついていき、やがて和戦一如というところまで繋がってゆく可能性があることを危惧する。したがって、この心の平和は、戦争という国家行為に対する市民的不服従の足場と原理になることはできないと結論する。では、将来にわたって戦争が起こらない世界を建設するという課題に対して、仏教はどのように寄与しうるのか。白弦は、まず主体的境涯の事柄を実存の垂直の次元とし、対象世界に対象的に参加する事柄を水平の次元として、その二つの次元が交錯するところに、仏教者の社会実践のあるべき姿を求めた。それを彼は「原点ラディカリズム」と呼び、その内容としては、「空─無政府─共同体論」が提示される。白弦は、禅思想や華厳哲学が指し示すあるべき社会の姿は無政府共産社会であると主張するに至っている。
ただし、彼の思想は暫定的な性格が強く、原点ラディカリズムも思想として練り上げられたものではない。なお、白弦の思想は華厳経の思想、道元、一休、盤珪、鈴木大拙らの禅思想や西田幾多郎の哲学を基盤としながら同時に、マルクス、ベルジャーエフ、サルトル、ドストエフスキー、ティリッヒ、カール・バルトなどから多彩な影響を受けている。
以上の白弦の思想の中に、仏教の特徴と問題点が鮮明に現れているように思われる。
まず注目されるのは、戦争責任への反省の全体が、自己反省を基礎にしている点である。戦争責任の問いは、自己を問うという仏教の基本的姿勢の中に置かれることによって、仏教者のものとなると言えるであろう。彼の仏教批判も、仏教の論理を現状肯定と体制擁護の論理として受けとめた自分自身への批判と解するべきであろう。そして、原点ラディカリズムは、仏教の社会倫理の有りようを思想化したものと言うよりも、マルキシズムやアナーキズムの影響を受けての白弦の個人的な思想だと言うべきである。またそれは、白弦が禅者として社会的に実践してゆく足場を明示したものという性格をもっている。しかし、仏教者のあり方として一般的意味をもつのはむしろその点である。
私見によれば、仏教の社会倫理は一般的な教理ないし思想として仕上げられるものではない。むしろ仏教から直截に出てくるのは、社会正義の実践についての己れの無力さを自覚せよという要求であったり、「禅は百般の中間底に対して是非を言わぬ」(鈴木大拙)という態度であったりする。そういうあり方を批判して、白弦のように仏教の社会倫理思想を構築する必要性を説く者たちが出てくるわけであるが、それは仏教にはこの面が欠けているので補充するという性格のものではないように思われる。行為の責任を負うことができるのは仏教ではなく、仏教者としての自己である。白弦の思想と行動の軌跡は、禅者が社会的現実のなかで苦悩しながら、時代思潮・政治情勢と対話しつつ己れの行為を遂行した実例として一般的な意義をもっていると考えられる。原点ラディカリズムそのものを一般化することはできないように思う。
だが、このような仏教の問題点として指摘されるのは、平和問題をも己事究明の機縁にしてしまう傾きをもつこと、現実の平和問題への具体的貢献に関しては迂遠な道とならざるを得ないことなどであろう。
自己を問うという仏教の基本姿勢は、宗教間対話への関わり方をも規定しており、先に述べたことはこの問題にも妥当する。般若の智慧を得ることが仏教の真髄であるということは、仏教は個々の人間において具体的なものとなるということである。そこで、宗教間対話が考えられるとすれば、二つの形があり得るように思われる。
一つは、他宗教の思想や実践活動が自己のあり方に対して問いを突きつけてくるという形である。他宗教の思想や信仰の現実に面して、自己のあり方についてそれまで見えなかったものが見えてくるということが起こるであろう。もう一つは、他宗教の信仰者と出会うという形である。詰まるところ、宗教間対話は人と人との対話に収斂する。それは、人間であることが、たとえばキリスト者と仏教者の共通の基盤となるという意味ではない。仏教に限らず、すべての宗教は生きられることにおいて現実化するのであり、生きられた宗教同士の対話は宗教を生きる人間同士の対話となると考えるからである。この二つの形は関係し合っているであろう。いずれにしても、仏教にはキリスト者に対する仏教者の立場というように、相対峙する一つの立場をとるということを内から乗り越えようとするところがあるが、他宗教はその乗り越えを拒否する異他性を突きつけ続けることによって、自己への問いを終息させない。そこに、仏教においての宗教間対話の意義があると言えよう。
『市川白弦著作集』全4巻、法蔵館,1993年 鈴木大拙 「国家と宗教」(1947,8年)、「戦争―人間生存―仏教」(1948年)『鈴木大拙』第9巻、岩波書店
大西修 『戦時教学と浄土真宗――ファシズム下の仏教思想』社会評論社、1995年
金 文吉(釜山外国語大学教授)
キリスト教思想には、絶対的平和主義(無条件で絶対的な戦争の拒否)から正戦、聖戦の積極的肯定論にいたる多様な立場が存在する。今回私が発表したいのは、明治におけるキリスト教指導者内村鑑三の「平和」思想と日本統冶下における朝鮮無教会の組織と活動についてである。
まず、明治のキリスト教会が置かれた特殊的な歴史状況が考慮されねばならない。明治維新以来、政府は皇室神道を中心に天皇を神格化し、天皇に対する忠君愛国の精神を国民に植えつけるために、伝統的思想や宗教をイテオロギー的に動員してきていた。こうして天皇制国家が確立する中で、キリスト教会は日本の伝統や忠君愛国の道徳に反するといった非難や攻撃に対して、そうではないという自己弁護をすることを余儀なくされた。キリスト教の大半の指導者たちはキリスト教が天皇制国体に忠実な宗教であることを具体的に示す言動を行い、天皇制確立期におけるキリスト教の自己規制の役割を果した。
内村は日清戦争が起って間なく、『国民之友』に「日清戦争の義」(“Justification of the Korean War” の内村自身による邦訳)と題された論文、日清戦争における日本の正当性をキリスト教の立場より海外に訴えた。これによると、日清戦争は日本が正義のために戦う義戦である。「孔子を世界」に供せし支那は、今や聖人の道を知らず。文明国が此不実不信の国民に対する道は、唯一あるのみ。鉄血の道なり、鉄血を以て正義を求むるの途」であって、「吾人の目的は支那を警醒するに在り、其天戦を知らしむるにあり、彼をして吾人と協力して東洋の改革に従事せしめるにあり、吾人は永久の平和を目的として戦ふものなり」と、きわめて主戦的である。内村は、人類の文明の歴史的進歩という点から東洋における文明進歩の戦士=アジアの盟主たる日本による清征伐として、日清戦争を肯定した。このような日清戦争における主戦論は、内村だけでなくほとんどのキリスト教会指導者の立場であったのであり、後の日露戦争においても基本的には変化がない。
しかし、内村は日清戦争の現実に直面する中で、非戦論者として飛躍することになった。この立場の転換をどのように理由づけ、評価するかは内村鑑三研究の主要な問題点の一つであるが、これまでの諸研究をまとめるならば次のようになるであろう。内村が日清戦争を弁護したのは、正義性(アジアの教主としての日本)のためであった。すなわら、内村は明治二八年五月二二日のベルあての手紙の中で、次ぎように述べている。
「支那との紛争は終り候、或は寧ろ終りたるものと謂はれ候、…『義戦』は変じて幾分海賊的の戦争となり其『正義』を書きし一預言者は今は恥辱の中に有之候」
また、内村は、戦勝国日本の現実についても次のように述べている。
「故戦勝て支那に屈辱を加ふるや、東洋の危殆如程にまで迫れるやを省みる事なく、全国民挙て戦争会に忙しく…、義戦若し誠に義戦たちば何故に国家の存在を犠牲に供しても戦はざる、日本国民若しに義の民たちば何故同胞支那人の名誉を重んぜざる、何故に隣邦朝鮮国の誘導に勉べざる、余輩の愁嘆は我が国民の真面目ならざるにあり、彼等が義を信ぜずして義を唱ふるにあり、彼等の隣邦に対する親切は口の先に止りて心よりせざるにあり」
確かに内村は日清戦争後直ちに無軍備論者になったわけではないが、彼の非戦論は日露戦争が急迫する頃から顕著になっていく[8]。内村は『余が非戦論者となりし由来』(明治三六年)に於て、自らか非戦論者になった理由として次の四つを挙げている。
- 聖書である。彼は「十字架の福音が或る場合に於ては戦争をよしとするとは、私にはどうしても思われなくなりました」と述べている。
- 無抵抗主義の経験によって、それによって勝利できることを知ったため。
- 日清戦争の結果が、戦争の有害無益なことを教えてくれた。
- 「The Springfield Republican」という米国新聞の平和主義的主張と平和主義者の論説の感化。
これらの理由から内村は「余は日露非開戦論者であるばかりでなく、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。さうして人を殺すことは大罪悪である。さうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない」と結論するに至った。
朝鮮に無教会が入ったのは金貞植によってであった。 金は1902年独立協会が行なう改革党に加担したという理由で日本警察によって投獄されたが、獄中生活中、宣教師によってキリスト教の福音を聞いて信者になった。出獄後ゲイル(J.S. Gale)宣教師より洗礼を受け、初代朝鮮YMCA幹事となったが、1906年、YMCAの仕事で東京に行き、内村鑑三に出会い、無教会信者となった。
金貞植によって伝えられた無教会キリスト教を朝鮮で復興させたのは金教臣である。金がキリスト教信者になったのは日本留学にした時である(1920年)。同年10月に内村鑑三の『求安禄』を読み大きな感動を受け、内村の聖書研究会に参加し無教会信者になった。1927年に東京師範学校を卒業し帰国した金は、咸興永生女子高等学校に地理教師として勤務しながら『聖書朝鮮』を創刊した。朝鮮にキリスト教が伝来してから約半世紀に至っているが、いまだに先進欧米宣教師などの遺風を模倣する状態を脱しえぬことを残念に思い、純粋なる朝鮮産キリスト教を解説しようとして、「聖書朝鮮」を発刊したのである。
「私の無教会主義とはきわめて広義にまた精神的に解する。旧新約聖書を貫通する精神キリスト、パウロ、ルターの精神、キリスト教の精神、または宇宙にいっぱい満ちている正気と解する。私には無教主義とは真正のキリスト教を意味するであり、無教主義とは真正のクリスチャンを意味するものである。無教会の有無、洗礼の有無、そのようなものは何等関係がない。無教会主義、すなわち福音、無教会主義者すなわち信者である。私の無教会主義とはこのようなものであり、この無教会こそ私が内村先生から学んだところの最善、最美、最高のものであり、これこそはキリスト自身の精神であると確信する…救いはキリストにあることを明白することが無教会主義の使命である。」
戦後、朝鮮無教会には金教臣の後輩に咸錫憲(1901-1989)という人物がいる。彼は雑誌『シアル』(種)を発刊し、平和思想を広めた。彼によれば、「シアル」は新約聖書にある“ロゴス”のことであり、彼は、ロゴスは神の言葉であり万物を造る神であると述べ、朝鮮人に聖書をよく読むように勧めた。また、かれは、「シアル」がない政治人は独裁政治であると主張し、1965年韓国軍事政権に対して民主化運動を行った。反政府知識人としてよく知られていた。彼は1959年に無教会からクェーカー派に転換し平和運動を行ったが、無教会からクェーカーに変わった理由も軍事独裁政権と戦うためであった。
ソウル ソウル特別市鐘路2街YMCAの7階で、韓方徳氏を中心として毎週日曜日午後2時聖書集会。高麗大学校数学科柳希済教授の自宅に集会所がある。ソウルオルュ洞李鎮九先生の自宅に集会所 京畿道光明市「明洙先生自宅に集会所 大邱 慶北大学校微生物学科朴浣教授研究室集会所 釜山 釜山大学校心理学科教授自宅集会所 光州 光州市東区東明洞226-6全準徳自宅集会所
【文献】
許 油(大韓仏教研究所・法然寺)
朝鮮時代の排仏の歴史的な原因は、すでに古代仏教からの過度な政教密着から育まれてきたものであり、それが朝鮮時代の排仏という形で現れたのである。こうした歴史の因果関係の中で、朝鮮の仏教が時代の現実を克服するために傾けてきた努力と活動に関しては、より十分に理解し、積極的に評価する必要がある。排仏の受難を経験しながら、停滞と衰退を重ねてきた仏教といった朝鮮の仏教に対する一般的な認識が、この時代の仏教の全体像ではないからである。国家の政策的な抑圧と、排斥のもとで広げられてきた対内外的な様々な努力と活動は、それ自体朝鮮の仏教が自ら選んだ自活のための最善の方法であり、仏教の教団を最後まで維持させることができた底力もまさにそうした努力から生まれたのである。
朝鮮時代の排仏政策に続き、日本植民地時代における韓国の仏教の萎縮にもかかわらず、韓国仏教の発展は、慈悲と平等、文化と伝統、国権の守護精神および民衆教化といった中心思想に基づいて行われた。韓国の仏教は開花期には、封建的な残滓を清算し、仏教指導者たちに近代意識を植えつける先駆者的な役割を主導的に行った。開花僧として広く知られた李東仁(1849-1881)僧侶はその代表的な人物である。李東仁僧侶は高宗に世界の情勢を上奏し、1881年、紳士遊覧団が訪日した際に参謀役を果たした。また、講学活動を広げた奉元寺の講院(寺の教育機関)は、僧侶はもちろん、開花人士らに近代意識と学問を教える開花の場所として活用された。 仏教界の近代教育機関としては、中央に明進学校(現在の東国大学)をはじめ、7つがあり、全国の各地方に明化学校など、20箇所があった。
近代韓国仏教の中興のために、大覚教を創設し、新しい仏教運動を引き起こした白龍城(1864-1940)僧侶の活躍は高く評価される。白龍城僧侶は、仏教の大衆化のために、儀式を簡素化し、民衆のための禅会、子供に対する布教のための日曜法会をはじめ、最初に讃仏歌を法会に導入するなど、従来の布教方式から脱皮させ、禅農仏教と布教の現代化を試みた。
韓国戦争の終戦後は、世界の人々に向けて仏教思想を広げることも怠らなかった。 仏法の世界布教にもっとも活躍をしたのは崇山(1927-)僧侶であるが、30年以上、全世界を回りながら、釈迦の教えを伝えた。1966年、日本の弘法院をはじめとして、香港・米国・ヨーロッパなど、全世界の30カ国にわたって、120余の弘法院と仏教禅院を建てて、仏教の開拓のため先頭に立った。分断の現実の中で、冷戦の終息のため、平和思想運動を持続的に広げてきた。
また、1988年、仏教界の代表的な社会運動団体である「浄土会」 (http://www.jungto.org/)を創立し、北朝鮮援助団体である社団法人「良い友ら」、国際飢餓・疾病・文盲と取り組む機関であるJTS(Join Together Society)、仏教環境教育院などの参加機関を設立し、活動を繰り広げている法輪(1953-)が代表的な僧侶である。法輪僧侶の平和実践運動は、2000年、マクサイサイ賞を受賞するきっかけになった。その他に、実践僧家会・仏教在家連帯・平和仏教協会など、多くの仏教団体が戦争反対と平和実現のための連帯機構を設立し、国際的な反戦平和運動と難民援助のための救援活動を進めている。 それだけでなく、釈迦の不殺生の基本精神を環境運動に昇華させ、現代文明の産物である公害と汚染によって死んでいく自然の生命を生き返らせるための広範囲にわたる生命運動が展開されている。
このように、韓国仏教は朝鮮の仏教以来、法脈の継承作業とともに、現代になってからは世界平和運動を通した参加仏教思想へ発展してきたのである。
法蓮院の基本思想は、平和と相生のヒューマニズム、そして命に対する愛にある。今、この時代は、人間の貪欲と物質主義により、愛よりは憎しみが先立ち、理解よりは憤りを、譲り合うよりは独善を優先する社会現象が生じている。こうした物質価値本位の時代は、人間個々人をさらに孤立させ、自我の混乱と生命を軽視する風潮につながる。今、世界は貧困の差がさらに広がり、毎日数千人が飢え死にしているにもかかわらず、もう一方では穀物が余り、物の使いすぎが依然と続いている。また、民族的・宗教的な葛藤などの理由で、数十年間、隣国同士で戦争を繰り返し、罪のない命を殺すといった行為が毎日のように行われている。法蓮院はこうした人間社会を癒し、平和と相生の社会を開いていく道は、無条件の慈悲を無限に実践することのみであると諭す。また、法蓮院は、俗世の救いだけでなく、すでに苦しみの中でなくなった罪のない魂に対しても、霊的な平和と安息のために引き続き努力を傾けている。
今まで、法蓮院は戦争と大規模の事故などで苦しみのうちになくなった魂のための天道大祭だけでも数十回行っており、これは韓国だけでなく全世界の人々を対象に進められてきた。1964年から1975年までの10余年間、ベトナム戦争で韓国の軍人が約5000人戦死しており、法蓮院はこの戦死者の魂を慰めるための無布施の天道大祭を釜山本院で、釜山市長・国防部次官・軍の高級将校などが大勢出席した中で、1988年5月に厳粛に行った。また、1990年の湾岸戦争および2001年のアフガニスタン戦争、今年起きたイラク戦争で死亡した数万人の無名外国人戦死者のための特別な天道祭を、1991年と2002年、2003年にそれぞれ釜山とソウルの本院で開催した。
法蓮院のこうした行事は、世界各国に対して、戦争を中断するよう促し、平和と慈悲の真の意味を広く知らせるためである。2001年2月26日に、日本植民地時代、日本の長生炭鉱での韓国人犠牲者136人の帰国および位法安式を、釜山市民と国会議員ら約4000人が参加した中で、釜山駅の広場で執り行い、同じ年の9月、慶州の法蓮院では、日本軍の強制慰安婦として死亡した挺身隊の方々に対する平和と安息のための天道祭を、生存している挺身隊の方々の参加のもとに執り行った。このように、法蓮院は魂に対する平和と慈悲の実践が生きている人々に対するものに比べて決して劣らないという認識を持って、引き続き無布施の天道祭を執り行っている。この天道祭の基本精神は法蓮院の無条件の慈悲と平和共存哲学から始まる。
私たちは自ら悟らない限り、慈悲の大きな意味を知ることができず、知恵の深い泉に出会うことなく、苦しみに満ちた人生を送るであろう。法蓮院はまさにこうした人間個々人の真我を悟らせ、共に慈悲の志を立て、知恵の喜びを分かち合うのである。
朝鮮の仏教の対話と平和の思想(法然寺主催平和運動年報)
21世紀COEプログラム
京都大学大学院文学研究科
「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」
「多元的世界における寛容性についての研究」研究会
tolerance-hmn@bun.kyoto-u.ac.jp