21世紀COEプログラム

多元的世界における寛容性についての研究

京都大学大学院文学研究科
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国際シンポジウム2004

東アジアにおける宗教間対話の意義
―日韓キリスト教の役割―


【日時】 2004年10月22日(金)

【会場】 釜山外国語大学・韓国

【コーディネーター】

金 文吉(釜山外国語大学教授)

【パネラー】

芦名定道(京都大学大学院文学研究科助教授) ―日本の宗教状況と宗教間対話の可能性―
李 象奎(高神大学神学部教授) ―韓国キリスト教の他宗教に対する理解―
金 承哲(金城大学人間科学部教授) ―韓国と日本のキリスト教における宗教間対話について―

【コメンテーター】

崔 鏡錫(慶星大学神学部教授)
佐々充昭(慶応義塾大学・東京経済大学非常勤講師、ソウル大学博士/哲学)


シンポジウムの趣旨

 21世紀を迎え、中国、韓国、日本を含む東アジア地域においては、新しい相互協力の社会をめざした様々な明るい展望が語られている。しかし他方、20世紀から継続して進みつつある社会の急激な変動は、伝統的な文化や価値を解体し、この地域の不安定要因ともなっている。東アジアの宗教もこうした流動化しつつある状況と深く関与することによって、新しい精神文化の建設への寄与が求められているのである。
 本シンポジウムは、以上のような21世紀の東アジア地域における宗教を取り巻く状況との関わりで宗教間対話の意義を論じ、その中で日韓のキリスト教が果たすべき役割は何かを明らかにすることを目指している。東アジア地域における宗教状況は伝統的に宗教的多元性を特徴としており、一つの社会の中に複数の宗教が共存してきたが、現在東アジアの諸宗教は相互の違いを超えて、共通の課題に直面しつつある。たとえば、平和や環境ととった国際問題、また伝統的な家族制度の変動やそれに密接に関連した都市化や高齢化などの諸問題など、協力して取り組むべき課題は少なくない。こうした中で、日韓のそれぞれのキリスト教は、キリスト者個人(たとえば研究者や伝道者)のレベルから、個別教会や団体のレベル、あるいは教派や学会のレベルなどに至る多様な仕方において、これまでも宗教間対話の取り組みを推進してきた。東アジア地域において宗教間対話が今後実質的に意味ある仕方で展開してゆくために、日韓のキリスト教が果たすべき役割は決して小さくないであろう。


國際심포지엄에 즈음하여

21세기의 종교간의 대화를 생각한다

코디네이터  

 (부산외국어대학교동양어대학장, 아시아지역연구소장)

 

 21세기는 글로벌리제이션의 획기적인 시대를 직면하고 있다. 일본 한국뿐만 아니라 유럽 나라와의 관계도 가까운 이웃나라가 되었으며 지구촌의 조그마한 나라의 사정도 우리가 사는 안방과 같은 교감을 가진다. 이러한 글로벌 시대에 가장 이목을 끄는 것은 종교이다.

세계의 수많은 종교가 존재하고 있는 오늘날, 특히 사회문제로 대두되는 것은 종교이념의 벽을 쌓고 있다는 것이다.

오늘 일본 경도대학(京都大)문학부 COE연구회와 부산외대가 공동주최하는 국제심포지엄도동아시아에 있어서 종교간의 意義 -한일기독교의 역할-이다

본주제와 같이 多元的종교간의 서로가 대화를 가지고 협력을 해야 하는 것이다

日本京都大學文學部 종교학(기독교 전공) 연구하는 아시나(芦名定道)교수가 지적했듯이 오옴교가 동경 지하철사건 또는 오늘날에도 많은 생명을 빼앗아가는 이라크 전쟁은 종교 간의 대화와 협력이 없었기 때문에 비극을 초래했다고 보는 것이다. (아시나교수 논문 참조)

글로벌리제이션시대의 사회적 측면에서 여러모로 대화의 장을 열어놓고 있다. 2005 9월에 부산에서 열릴 Apec(Asia Pacific Economic Cooperation) 그대로 아시아경제협력단체, 경제문제를 해결하는 대화의 장이라고도 있다

이와 같이 종교간의 대화도 일본에서는 NCC(기독교종교연구소), CORMOS(Conference on Religion and Modem Society) 조직되어 활동하고 있다(아시나교수 논문참조)

우리나라도 여러 기관을 만들어 놓고 있다우리나라는 부서만 만들어 놓았지만 활발하게 움직이는 동향은 희박하다.  21세기는 고령화 사회, 육아 교육, 가정 폭력, 기아(고아) 문제, 핵가족화, 사회윤리, 핵전쟁 운운 사회 병리가 발생함에 따라 종교의 인구가 급속히 증가하는 실태에 놓여 있다

왜냐하면 사회가 복잡 다양해짐에 따라 인심(인간의 마음) 하나의 절대주 신앙의 대상을 찾기 쉽고 찾는 이가 많아진 것이다. 이런 현상이니 오늘날 신흥종교가 많이 일어나는 것이다. 다원적 종교에서 가장 필요한 것은 대화와 협력이다

상규 교수가 지적했듯이 종교에는 3가지의 형태가 있다 

하나는 배타주의적 입장(Exclusionism)이다.

기독교의배타성은 어느 종교보다 강한 이미지를 띄고 있다.

사도행전 4:12 말했듯이다른 이로서는 구원을 얻을 없나니 천하 인간에 구원을 얻을 만한 다른 이름을 주신 이는 없다것에 입각하여 타종교와는 대화와 협력을 찾을 수가 없었다.

예를 들자면 오늘날 자주 가정 법원에서 일어나는 이혼 문제이다

남편은 불교 신자이고 부인은 기독교 신자이다상호종교 갈등 속에 이혼까지 하는 사례와 또는 일전 서울 어는 미션스쿨고등학교의 학생이 채플 시간의 참석을 강요하며 결석 처리하는 일에 불만을 품고 소송을 제기했다는 것은 분명 대화와 협력 관용에 결손 교육이라는 것을 있다.이런 문제는 특히 한국 기독교가 더욱 심했다는 것이다

한국 기독교는 한말(韓末) 일본, 중국으로부터 수용되었지만 한국 땅에 뿌리 내리기전 일제통치하에 일본 기독교에 예속(많은 교회가 일본 기독교회에 예속)되어 영향을 받아왔다일제통치하에 일본 기독교는 천황제국가의 이데올로기를 중요시 여기다 보니 기독교 정신은 약해지고 황민화 정책에 몰두하게 되었다

일제 통치하의 많은 신자들이 불만과 기독교회의 원래 정신을 희망했고 일부 기독교인은 일본 기독교 교회에서 탈퇴하는 사람도 많았다. 한국 기독교의 배타성이 강한 것은 조선 사회가 지향했던 유교의 정신도 있지만 무엇보다 일제통치하의 일본 기독교, 특히 교세가 강했던 일본 종합교회(組合ヘ會) 조선 전도의 영향이라 있다.( 문길 일본근대기독교와 조선 明石書店 1996)

과거의 우리 교회는 일제통치하의 박해와 쓰라림 속의 종교화는 배타성을 가졌지만 21세기에 와서는 달라져야 하는 것이다. 포용주의적 입장( 상규 교수 논문 참조)

필자는 지난 2003 12 25 크리스마스 大韓佛ヘ 법연사라는 사찰의 초대를 받고 갔다. 법연사의 주지 스님은 허유스님이신데 분하고는 인연이 깊다. 허유스님을 먼저 소개하자면 京都대학문학부의 연구교수로 계신다. 현재 연구하고 있는 것은기독교와 불교의 대화라는 제목으로 많은 글을 쓰고 있다연구하는 논문도 논문이지만 법연사내 부처님 앞에서예수 그리스도의 탄생을 축하 합니다라는 현수막을 걸고 정식으로 크리스마스 축하 예배를 드렸다.  

법연사 신도 2000여명이 참석한 가운데 기독교 목사를 초빙해서 설교를 하고 찬송가 반주도 기독교인을 불러 예수의 탄생과 땅에 오심을 축복했다

특히 주지 스님은21세기 종교는 하나입니다라고 설법을 했다.(부산일보 2003 12 25일자 참조) 21세기 종교는 포용주의적 입장을 취해야 것이다. 그런 의미에서 포용주의신학자인 라너(Karl Rahner 1904~1984) 있다. 그는 그리스도교와 비그리스도교들(Das Christendom und die nicht christlichen Religione)이라는 유명한 논문에서 기독교가 절대적인 종교이기는 하나 다른 종교에서도 그리스도는 나타났으며 다만 이름이 숨겨졌을 뿐이라는 점에서 익명의 그리스도(Anonyme christen)론을 주장하였다 것이다

그는 이단자가 아니고 에쿠메니칼적인 관용 정신에서 종교와 종교인은 정죄하지 않으려는 의도에 있다고 있다. ( 상규 교수 논문 참조)

다원적 종교의 불교, 이슬람교, 기독교, 유교 없이 상호 대화 속에 평화의 사상을 품어가는 것이 우리들의 신앙이고 기독교의 예수의 평화사상이라 있다.( 승철 교수논문 참조)

예수는 평화의 메시아다평화는 절대 대화와 협력에서 이뤄진다.(마태복음 5)

대화는 바로 개혁이다예수는 땅에 오실 평화와 구원을 위한 개혁자시다

21세기는 문화의 창조 도덕적 가치관을 개혁해야 한다

오늘 심포지엄의 목적은 기독교회와 교단, 나아가 다원적 종교 간의 대화와 협력속의 세계는 하나로 평화를 이룩해야 것이다

결론적으로 종교 간의 대화와 협력관용이 이뤄져야 하는 문제 속에 사회문제를 일으킨 말하자면 이단 종교 간에도 대화와 협력 관용이 이뤄져야 하는지 오늘 학술 발표를 통하여 넓게 생각해 필요가 있다. 특히, 길을 오신 京都대학 문학부 아시나 교수, 나고야(名古屋)긴죠()대학의 승철 교수 참가자들의 노고를 치하 드리며 발표하신 이상규 교수. 토론자 여러분에게 감사를 드리는 이다

 


発題1

日本の宗教状況と宗教間対話の可能性

芦名定道(京都大学大学院文学研究科助教授)

【内容】

  1. 問題−日本の宗教状況−
  2. 日本における宗教間対話の現状
  3. 宗教間対話の課題とキリスト教
  4. 展望

1.問題−日本の宗教状況−

 新宗教研究によれば、近代日本の宗教史には、いつくかの(たとえば三つの)宗教ブームが存在し−宗教ブームとは新しい複数の宗教が同時発生的に出現するといった、宗教界における顕著な活性化現象を指しており、その時期は基本的には社会システムの変動期に対応している−、現在の日本の宗教状況は、1970年代以降続く宗教ブームのなかにある(1)。この1970年代以降の宗教ブームの特徴としては、小教団志向(キャンパスの宗教、小さな神々)、宗教融合・混淆の極端化、自己実現が入信動機に占める重要度の増大など様々な点が指摘できる−1990年代以降、阪神大震災とオウム事件とによって宗教状況はさらに新たな展開を示しつつある−。その中でとくに注目したいのは、こうした新しい宗教状況が日本における家族の変貌(核家族化、家族制度・家族倫理の崩壊や社会の高齢化)と密接に関わっていることである。それは、現代日本における家族の変貌に伴う困難な現実に直面して女性が抱く問題(家族内の人間関係の変質→無関心・断絶・対立・暴力。子育て・教育・介護といった問題)に対して、新宗教が積極的に応答しようとしている点に見ることができるであろう−女性は宗教運動の主要な担い手であり、多くの新宗教においては、この女性の要求に日本の伝統的な家族倫理(家父長制に基づく)の再建という仕方で応答する動きが見られる(2)
 我々は、現代日本における宗教間対話を論じる場合、現代の時代状況の中で諸宗教が共通の課題に直面しているという事実に注目しなければならない。もし、宗教間対話が、諸宗教にとって単なる定例セレモニーやサイドワーク以上のものであるためには、それは宗教間対話の背後にある宗教状況との関わりで論じられねばならないであろう(3)
 以下のわたくしの発題では、こうした問題意識のもとで、日本キリスト教における宗教間対話への取り組みの現状を紹介し、その問題点と今後の展望について考えてみたい。

2.日本における宗教間対話の現状−キリスト教の視点から−

 日本のキリスト教にとって、他の諸宗教との対話は、長い歴史を有しており、すでに制度として確立していると言える。たとえば、1970年の京都での世界大会から始まった「世界宗教者平和会議」(WCRP)は、5年に一度の世界大会開催を中心に、難民・人権・平和・環境といった現代の諸問題と積極的に取り組む活動を続けているが、そこには日本の伝統的な宗教教団や新宗教とともに、日本キリスト教も参加しており、宗教間対話が具体的に進められている(4)。また、諸教団や研究者のレベルでの宗教間対話や相互交流も盛んであり、1971年に始まった「現代における宗教の役割研究会」(=コルモス会議、Conference on Religion and Modern Society)は、日本の代表的な宗教教団・教派に付属する研究所と一般の宗教関係の研究者とが、年に一度京都で会議を開催し、現代社会において諸宗教が直面する問題をめぐり討論が行われている。その趣旨は次のように説明されている(5)

  1. 諸宗教の対話と協力の可能性、その意義及び方法を探ること。
  2. 宗教の立場から現代社会の分析と把握をすること。
  3. 諸科学の成果に照して、宗教とは何か、宗教は如何に在るべきかを根本的に問い直すこと。
  4. 現代社会の諸問題で、特に世界平和の問題を検討するなかで、宗教は何を為すべきか、また、為し得るかを問いつめること。

 こうした趣旨に基づいて、平和と暴力の問題、高齢化社会や生命科学がもたらした死生観の変化、情報化社会における人間と宗教、といった宗教と非宗教の区別を越えて日本社会全体が直面する諸問題をめぐり対話と討論が継続されているのである。この会議には、キリスト教関係の研究所として、南山大学の宗教文化研究所(名古屋)とNCC宗教研究所(京都)が加わっているが、わたくしも、NCC宗教研究所の関係者としてこの会議に出席している。また、コルモス会議に属する諸教団の関連研究所は、2年前から、「教団付置研究所懇話会」を開催し相互交流をさらに活発化しつつある。昨年10月に立正佼成会図書館視聴覚センター(東京)で開催された第二回の懇話会では、「葬祭−現代的意義と課題」(曹洞宗総合研究センター)、「宗教とテロリズム−9.11をめぐる一考察−」(立正佼成会中央学術研究所)、「宗教間対話の歴史的な背景−仏教と基督教に関して」(NCC宗教研究所)という内容の研究発表の後、活発な質疑応答が行われた(6)
 そのほかにも、日本のキリスト教に関係する主なものだけでも、宗教間対話を具体的に推進している学会として、東西宗教交流学会、比較思想学会、宗教倫理学会などが存在し、多くの研究者レベルの交流が行われている(7)。このように研究者相互の宗教間対話は現在かなり活発に進められ、その成果の多くは書物として出版されている。以上より、日本キリスト教は、教団や研究者のレベルでは、きわめて積極的に、しかも現代日本の宗教状況とその問題状況にまさに応答する仕方で、宗教間対話を推進していると言える。
 しかし、問題は、こうした教団や研究者のレベルと、個々の教会(各個教会)や普通の信徒個人のレベルとの間には、大きなギャップが存在しているという点である。日本のキリスト教に関して言えば、以上のような宗教間対話に積極的に関わっている各個教会や個人信徒はきわめて例外的であり、多くの個人信徒は、他の宗教との積極的な関わりなど意識することなく信仰生活を送っているのが現状である。この教団・研究者レベルと各個教会・信徒レベルとの間の、宗教間対話をめぐるギャップについては、それをどのように評価するかは別にしても、その存在自体は否定できない事実であって、ここに大きな問題があることは明らかであろう。たとえば、個々の信仰者は、死者儀礼(葬儀、埋葬、供養など)をめぐって宗教的寛容が損なわれる事態(たとえば、自分の信仰と家の宗教とが異なり、自分の信仰と異なる葬儀を主宰しなければならない、あるいは自分の信仰と異なる宗教のやり方で自分の葬儀が行われてしまうなど)にしばしば直面するが、それにもかかわらず、こうした問題をめぐる教会の取り組みや宗教間の対話はまったく不十分である(8)。ここでは、こうしたギャップによって、宗教間対話がキリスト教信仰の実践的な場より遊離し、宗教教団・研究所間の定例セレモニーに陥る傾向を生み出している点を指摘しておきたい。

3.宗教間対話の課題とキリスト教

 宗教間対話の重要性は、教団や研究者レベルでは一定程度認識されつつあるにもかかわらず、キリスト教界全体の共通意識となるには至っていない。これが日本のキリスト教の現状であるとするならば、日本のキリスト教の視点から見た宗教間対話の課題は、宗教間対話の意義付けをキリスト教信仰自体に即していかに具体的に展開するのかということになるであろう。
 実際、宗教間対話の意義については、様々な観点から論じることが可能であるが、日本のように多様な宗教が複雑に混在する社会の中に、しかもマイノリティとしてキリスト教が存在する状況から言えば、他の諸宗教との相互理解や相互交流を行うことは、キリスト教にとってきわめて大きな意味を持つことが指摘されねばならない。というのも、宗教的多元性を基調とする日本では、その社会の中でキリスト教的な理想を実現するには、他の宗教との協力が不可欠だからである−生命科学の進展に伴う臓器移植やクローン技術への対応や、人間以外の生命と共生できる新しい環境に優しいライフスタイルの構築については、一つの宗教を越えたコンセンサスが必要である−。
 たとえば、キリスト教信仰や実践の中心として隣人愛を位置づけることができることは、多くのキリスト教徒が認める点と思われるが、宗教的多元性において規定された日本社会において、隣人愛を具体化するとはいかなることであるかを正面から問おうとするならば、他の諸宗教あるいは宗教に所属しない世俗との関わりを避けて通ることはできないはずである。人口の99パーセントが非キリスト教徒である日本において、もし、宗教間対話に無関心なままであり続けるならば、キリスト教的隣人愛はどんな具体性を持ち得るのであろうか。確かに、一方的あるいは表面的に隣人愛を実践することは可能であるし、また自覚的な個人信徒が宗教間対話の実質に関わる仕方で隣人愛の実践を行うことはあり得るであろう。しかし、これは、あくまで例外的な事例に留まるのではないだろうか。もし、宗教間対話がセレモニーや抽象論に終わるべきでないとするならば、なぜ宗教間対話を行う必要があるのかを、キリスト教信仰の根本に遡って明確化することが必要であり、今研究者や教団に求められているのは、こうした理論構築なのである。宗教間対話に関わる技術的な諸問題はその後で論じるべき事柄であると言わねばならない。
 さて、現在の日本キリスト教において、宗教的多元性をめぐる神学的論争の争点は、宗教多元主義を主張するジョン・ヒック(排他主義、包括主義、多元主義という類型論)に対する評価という点から整理できる(9)。完全な排他主義は別にして、宗教的多元性に何らかの意味を認める立場に立つならば、その場合、三位一体論におけるキリストと聖霊との関係をどのように理解するかが争点になる。ここで、@キリストの歴史的出来事の一回性・唯一性(キリストを通してのみ)に強調点を置く立場と、A聖霊の働きの普遍性(諸宗教内部における聖霊の働き)を強調する立場という二つの立場を考えることができるが、どちらに強調点を置くかで、他の諸宗教の評価(救いと真理という観点において)はまったく異なったものとなる。前者は包括主義に、後者は多元主義に結び付く傾向があると言ってよいだろう(10)。宗教間対話を論じるには、キリスト教思想のもっとも基礎的なレベルから理論を構築することが必要なのである。

4.展望

 今後の日本キリスト教においても、先に紹介した宗教間対話をめぐる様々な試みは、おそらく継続的に取り組まれて行くであろう。しかし、これが日本のキリスト教の現場(各個教会と個人信徒の日常的な信仰実践)においてどれほど実質化されるに至るかは、決して明らかではない。最後に、宗教間対話が意味あるものとして構築されるためのポイントをまとめることによって、今後の展望に代えたい。

 @宗教間対話は、諸宗教者と非宗教者とが、共に生きる社会(公共的な場)において、共通に直面する諸問題をめぐってなされる必要がある。宗教間対話は下からの公共性の構築に寄与するときにはじめて、十分な意義を獲得できる。この際に、社会や政治の現実への批判性を保持することが重要になる。今回は議論できなかったが、1990年代以降顕著になってきた日本社会の保守化(偏狭な日本主義の台頭)へ宗教的に適切に対応することは、日本の宗教間対話において取り組むべき重要な問題と言えよう。

 A宗教間対話は、各々の宗教の信仰の基本から、つまりキリスト教にとってはキリスト教信仰の基本から意味づけられる必要がある。宗教間対話は、信仰の単なる応用問題の一つと考えられている限り、必要な深みと広がりを獲得することはできないであろう。宗教間対話は、宗教教団・研究者レベルと各個教会・個人信徒レベルと間に存在する不幸なギャップやずれを顕わにし、かつそれを克服するという点でも、重要な意味をもっている。

 Bこのギャップを埋めるためのポイントは、死者儀礼の問題と理論的かつ実践的に取り組むことである(東アジアの宗教性との関わり)。この場合、各個教会の現場レベルにおいて様々に行われている試みを批判的にくみ上げつつ神学の議論を深めることが大切である。この点に関連して、一つの実例を挙げてみよう(11)
 東北の福島県の農家にキリスト教に熱心な一人の人物がいたが、彼の家は代々仏教を家の宗教としていた。彼はキリスト教信仰を持って亡くなったが、その際葬儀をどうするのかということになり、遺族は僧侶に相談した。僧侶は彼の信仰を知っており、また彼の属していた教会の牧師と友人であったため、牧師と相談し、仏式の葬儀の中で牧師が説教を行うことになった。つまり、僧侶と牧師が協同で葬儀式を執り行うことになったわけであり、彼の戒名は聖書から取られた。こうした事例について、キリスト教神学はどのような評価を下すのであろうか。日本の神学的思索はこうした具体性の深みにはまだとどいておらず、今後の取り組みが待たれる。

 以上のような三つのポイントについて、具体的に何を行いうるのかが、現在宗教間対話を論じる場合に日本のキリスト教に対して問われているのであって、このシンポジウムがこうした点を今後展望することの手がかりになり、わたくしの発題がその助けとなるならば、幸いである。活発な質疑応答を期待し、わたくしの発題を締めくくりたい。

【注】

(1) 近代日本の宗教史における宗教ブームについては、次の拙論を参照。
 芦名定道、小原克博 『キリスト教と現代―終末思想の歴史的展開』世界思想社 、2001年、26-31頁
 芦名定道他 『科学時代を生きる宗教 過去と現在、そして未来へ』北樹出版 2004年、18-21頁

(2) 宗教と女性・家族との関わりについては、次の拙論を参照。
 芦名定道 「東アジアの宗教状況とキリスト教−家族という視点から−」、『アジア・キリスト教・多元性』創刊号 現代キリスト教思想研究会 2003年、1-17頁

(3) 宗教間対話をめぐる諸問題については、次の『宗教研究』特集号に所収の諸論文を参 照。『宗教研究 特集:近代・ポスト近代と宗教的多元性』第329号 日本宗教学会 2001年。

(4) WCRPの活動などについは、http://www.wcrp.or.jp/jpn/index.htmを参照。

(5) コルモス、大谷光真、中川秀恭 『現代における宗教の役割』東京堂出版 2002年、2頁。コルモスに関しては、『現代における宗教の役割』の「はしがき」(大村英明)を参照。

(6) 教団付置研究所懇話会事務局 『第2回教団付置研究所懇話会−宗教研究者が集える領域づくり−』2003年

(7) これらの諸学会の内、宗教倫理学会の活動については、次のホームページを参照。http://www.jare.jp/

(8) 死者儀礼などをめぐる問題については、次の文献を参照。
 金文吉、芦名定道 「死者儀礼から見た宗教的多元性−日本と韓国におけるキリスト教の比較より−」、『人文知の新たな総合に向けて(21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」)』第二回報告書V[哲学篇2] 2004年3月、5-23頁
 櫻井圀郎 「葬送法上の問題(一)」、『キリスト教と世界』第11号 東京基督教大学 2001年、24-49頁
「親族にかかわる法と祖先崇拝」、『キリスト教と世界』第12号 東京基督教大学 2002年、1-33頁
「日本人の宗教観と祖先崇拝の構造」、『キリスト教と世界』第13号 東京基督教大学 2003年、44-81頁
「神への礼拝と死者の慰霊」、『キリスト教と世界』第14号 東京基督教大学 2004年、1-33頁

(9) 本発表で取り上げる宗教的多元性をめぐるキリスト教神学の問題状況については、以下の文献を参照。文献1と2は、宗教的多元性について、多元主義と反多元主義という 異なった立場から編集された論文集であり、ここから多元主義と包括主義との対立、あるいはキリスト論と聖霊原理との対比を読み取ることができる。この二つの文献は日本 語に翻訳されており、日本のキリスト教神学における論争にも影響を与えている。これらに対して、文献3は、キリスト原理と聖霊原理との対比を三位一体論の枠組みで統合することを目指すものであり、宗教的多元性をキリスト教的に論じる上で重要な方向性を示すものと言えよう。

  1. John Hick and Paul F. Knitter, The Myth of Christian Uniqueness. Towards a Puluralistic Theology of Religions, Orbis Books 1987
  2. Gavin D'Costa, Christian Uniqueness Reconsidered. The Myth of a Pluralisitic Theology of Religions, Orbis Books 1990
  3. Pan-Chiu Lai, Towards a Trinitarian Theology of Religions. a Study of Paul Tillich's Thought, Kok Pharos Publishing House 1994

(10)宗教的多元性の神学的評価のあり方と三位一体論との関わりという問題については、次の拙論で簡単な指摘が行われた。
芦名定道 「宗教の神学とキリスト教の再構」、『Newsletter』No.7、「多元的世界における寛容性について研究」研究会(21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/archive/jp/projects/projects_completed/hmn/://www.hmn.bun.kyhttps://www.bun.kyoto-u.ac.jp/archive/jp/projects/projects_completed/hmn/ewsletter.html">http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/tolerance/tolerance_newsletter7.html

(11)これは、日本キリスト教団若松栄町教会の高橋力牧師が「バイブルからの戒名」という文章で報告している事例である。http://tohoku.uccj.jp/~aizu/0005ibuki/ibuki-29.html

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題2.

한국 기독교의 타종교에 대한 이해와 협력

이상규(고신대학교, sglee@kosin.ac.kr)

 

 

시작하면서 

 

한국도 여타의 나라들과 마찬가지로 종교적 문화 상황 가운데 있다. 한국에는 전통적인 민족종교, 동양의 고전적인 종교라고 있는 유교와 불교, 서양종교 전통을 잇는 천주교와 개신교가 일정한 세력을 이루면서 공존하고 있다. 외에도 한국 사회 저변에는 여전히 민간신앙이 자리하고 있다. 유동식의 지적처럼 과거에는 시대의 문화를 지배하는 지배적인 종교가 있었으나 오늘의 한국의 종교적 상황은 종교적 다원사회를 이루고 있다. 비록 개신교는 19세기 이후 전래되고 수용되었지만 종교에 비해 급속한 성장을 이루어 현재 국민의 20% 개신교 신자로 알려져 있다. 비록 어떤 특정 종교가 한국사회를 지배하거나 주도하는 것은 아니지만, 영향력에 있어서는 기독교가 상당한 역할을 감당하고 있다.

  이런 종교적 다원사회에서 기독교는 종교에 대해 어떤 입장을 취해왔는가? 그리고 오늘과 같은 종교적 상화에서 한국의 기독교는 종교와 대화하고 협력할 있을까동시에 기독교는 오늘 한국사회가 직면하고 있는 사회적인 문제에 어떤 역할을 감당할 있을까? 글에서는 점에 대해 주목하고자 한다.

(John Hick)이나 알란 레이스(Alan Race) 기독교의 타종교간의 관계를 3가지 유형, 배타주의, 포괄주의, 다원주의로 설명하는데, 이런 유형은 한국 기독교의 종교관에서도 똑같이 적용될 있다고 생각된다. 우리가한국교회혹은한국 기독교라고 말할 이를 획일적 집단이나 단일 조직이나 체제로 없고, 신조나 신학에 있어서 다양성이 있으나 위의 3가지 유형으로 보는데는 무리가 없을 것이다. 시기적으로 기독교 전래 초기부터 해방 이전까지는 배타주의적 견해가 중심을 이루었으나, 1960년대 전후로 포괄주의적 견해가 대두되었고, 1960년대의 세계교회의 신학적 변화의 영향 때문에 1970년대 이후 다원주의적 경향이 대두된 것으로 있다. 그러면서도 신학적 견해에 따라 오늘날에도 3가지 유형의 입장이 공존한다고 있다.

 

I. 기독교의 종교 이해

한국기독교의 종교에 대한 태도를 있는 자료는 기간 동안 발표된 기독교계 인사나 학자들의 종교관련 논문이나 문서들이다.

개인의 견해가 한국교회 전체나 집단의 입장을 대변한다고 있는가에 대해서는 이론의 여지가 없지 않으나, 논자들은 한국교회의 지도적 위치에 있다는 점을 고려해 이들의 견해가 한국교회의 입장을 반영한다고 있을 것이다.

 

1. 배타주의적 입장 (Exclusivism)

  배타주의라는 용어가 오해의 소지가 있지만 기독교만이 절대 진리요 구원의 길이라고 믿는 전통적 복음주의 입장을 의미한다. 배타적이라고 말할 말은 기독교에의 구원의 유일성을 말하는 신학적 개념을 의미하지, 모든 인간관계에서 배타적 태도를 의미하는 것은 아니다. 이런 입장은 오랜 역사를 진고 있고, 로마 가톨릭의 경우 1960년대 이전까지 고수했던 입장이기도 하다. 이를 달리 표현하면 그리스도 외에는 구원의 길이 없다는 그리스도 중심성을 의미한다. 점에 대한 중요한 근거가다른 이로서는 구원을 얻을 없나나 천하 인간에 구원을 얻을 만한 다른 이름을 주신 일이 없다.(사도행전 4:12) 말씀이다.

  초기 한국교회에서부터 적어도 1960년대까지 한국교회의 절대 다수 그리스도인들의 종교 이해는 배타적 입장이었다. 현제까지도 복음주의 기독교회는 여전히 종교에 대해 배타적 입장을 견지하고 있다. 이진구는 해방 이전 개신교는 기독교는 유일신 신앙이라는계시성 근대 서구 사회의 산물이라는 , 문명성에서 자기 정체성을 확인 했는데, 가지자기이해에서 종교를 이해하고 있다고 지적했다. 그래서 기독교는 종교에 대해 우월한 종교임을 드러내고자 했다고 지적했다.

  유동식에 의하면 종교에 대해 배타적 태도를 보여주는 한국교회의 문서는 1891년에 발간된 샹톄 진리라는 제목의 소책자인데, 책에서 여호와는 창조주로서 동양의 ,, 3교나 무교 등의 신과는 다른 창조주 여호와임을 지적하고, 오직 하나님만을 공경해야 한다고 지적하여 기독교 신앙의 배타적 절대성을 주장하였다. 이런 종교관을 보여주는 하나의 경우가 1923 신학지남 발표된야소교와 타종교의 상관인데, 어도만의 글은 1925년에는그리스도 종교와 다른 종교에 ? 관계라는 제목으로 신학지남 다시 게재되었다. 이것은 종교에 대한 기독교의 관점을 주지시키려는 의도가 있었음을 있다. 글에서는 타종교에도 진리는 있을 있으나 구원이 없음을 말하고, 따라서 종교는 선교의 대상일 뿐이었다. 이런 입장이 한국의 그리스도인들의 일반적 태도였다.

  정도의 차이는 고려할 있으나 한국의 근본주의, 개혁주의, 혹은 복음주의 신학을 견지하는 보수주의적 교회는 배타주의적 종교관을 가지고 있으며, 이들이 여전히 한국교회 다수를 점하고 있다. 1960년대 토착화 논쟁에서 보여주었던 태도를 보면 박봉랑, 이종성, 전경연 등도 이런 견해의 소유자들이었다. 입장을 견지하는 대표적인 선교학자인 장로교의 전호진, 감리교의 이동주 등이다.

 

2. 포용주의적 입장 (Inclusivism)

  포용주의적 입장은 종교에 대한 상대주의적 이해를 기초로 하되 이들을 포용하려는 입장인데, 만민구원설이라고 일컬어지고 있다. 종교에 대한 포용주의적 입장은 1960년대를 거쳐 가면서 구체적으로 나타나기 시작했다. 천주교의 경우 2 바티칸 공의회(Second Vatican Council, 1962-1965) 개최되어 종교에 대한 전향적 입장이 선언되었다. 흔히로마 가톨릭의 현대화라고 불리는 회의에서는 개신교와 타종교에 대한 입장의 전환을 가져왔다. 전통적으로(로마가톨릭)교회 밖에서는 구원이 없다. 가르쳐 왔으나, 타종교에도 구원의 여망이 있음을 인정하였다. 점은 특히 그리스도교에 대한 선언(Nostra Aetate, 1965. 10. 28) 표명되었다. 특히 2 바티칸 공의회에서는 구체적으로 그리스도에 대한 신앙고백에 이르지 못한 것이 자기의 책임이 아닌 경우에 있어서의 구원의 가능성을 인정했다는 점이다. 이것은 보다 개방적인 교회관, 포용주의로 전환했음을 보여준다. 이런 포용주의적 입장을 주도한 학자가 라너(Karl Rahner, 1904-1984)였는데, 그는그리스도교와 그리스도교들"(Das Christentum und die nicht christlichen Religionen)이라는 유명한 논문에서 기독교가 절대적인 종교이기는 하나 다른 종교에서도 그리스도는 나타났으며 다만 이름이 숨겨졌을 뿐이라는 점에서익명의 그리스도(anonyme christen)론을 주창하였다. 라너의 입장은 자신의 종교인 기독교(천주교) 중심적 진리이며 규범적이라는 점을 견지하면서 에큐메니칼적인 관용정신에서 타종교와 타종교인을 정죄하지 않으려는 관심에 의도가 있다고 보아 힉크는 라너의 입장을 포용주의라고 지적하였다.

  한국에서 종교에 대한 포용주의적 견해를 피력한 최초의 인물은 초기 감리교의 대표적인 신학자였던 최병헌(崔炳憲, 1858-1927)으로 파악된다. 한국 최초의 신학자혹은한국 최초의 비교종교학자라고 불리는 최병헌은 한국의 전통 사상을 기반으로 기독교를 해석한 대표적인 학자로서종교의 진리는 천상천하에 하나이오 고왕금래에 둘이 없는 것이다라는 전제에서 타종교에 대해 배타적인 태도를 취하지 않고, 모든 종교가 하나로 성취된 바가 그리스도 복음이며 기독교라고 이해하였다. 그의 신학은 정경옥, 윤성범, 유동식, 변선환으로 맥이 이어져 감리교신학대학의 특징적인 신학으로 발전하였다.

한국의 대표적인 장로교 신학자였던 김재준도 포용주의적 태도를 보여주었다. 그는 1960 전후에 종교에 대한 태도를 보여주는 3편의 논문을 발표했는데, 그는 종교를 포괄적 성취라는 점에서 이해해야 한다고 주장했다. 김재준은 한국 장로교회의 진보적 견해를 대표하는 신학자였지만 타종교를 선교의 대상으로 인식했다는 점에서 다원주의자는 아니었다. 한국에서 포용주의와 다원주의자 간의 경계선이 모호한 점이 없지 않으나 진보적 신학을 추구하는 이들이 포용주의를 지지하는 이들이라고 있을 것이다.

 

3. 종교다원주의(Pluralism)

앞에서 언급했듯이 라너는 포용주의자였는데, 그의 정신을 이어받은 후예들은 라너를 넘어서서 종교다원주의를 주장하고 있다. 이와 같은 상황은 로마 가톨릭에만 국한된 현상은 아니다. 많은 개신교 신학자들도 동일하게 다원주의를 주창하고 있고 한국의 경우 감리교 신학자들이 선구적 역할을 하고 있다.

  다원주의란 기독교의 고유성이나 독특성을 포기하고 모든 종교는 동일한 구원과 진리에 도달한다는 주장이다. 다원주의는 계시종교로서의 기독교의 절대성을 부인하고 각각의 종교들은 절대적 존재자인 하나님에 대한 나름대로의 이해로 보고 종교의 동등함을 인정하는 입장이다. 이런 입장은 보수적 성향이 짙은 한국교회에서 상당한 비판을 감내해야 했고, 감리교의 이동주교수는 종교다원주의는 기독교의 기본적인 신앙고백을 떠난 신학이므로 기독교  신학이 아니라고 비판했다. 다원주의자인 윌리암 혹킹(William Hocking) 선교에 대한 재고(Rethinking Mission)라는 보고서에서 동양종교의 가치를 새롭게 평가하고 기독교 선교는 유교도들을 기독교도로 개종시키는 것이 아니라 좋은 유교도가 되게 하는 것이라고 주장하므로써 전통적 기독교 선교관에서 일탈했다. 전후(戰後) 상황은 타종교와의 대화를 더욱 촉진하게 하였는데, 일련의 과정 속에서 타종교에 대한선교대화 대치되었다. 이러한 변화와 함께 1960년대를 넘어오면서 기독교와 타종교와의 대화는 궁극적으로 구원관에 있어서 교회안과 교회 (intra muros et extra muros) 차이를 철폐하는 종교 다원주의의 길을 갔다고 있다. 인도신학자 사마르타(S. J. Samartha) 종교 속에서도 그리스도가 얼마든지 있을 있다는보편 기독론 주장하여, 마호멧, 크리쉬나, 짜라투스트라 등을 예수와 동일시하였다. 결국 그의 혼합주의적 보편기독론은 기독교의 기독론과 힌두교의 범사상을 혼합시킨 것으로 있다. 그는 (John Hick) 니터(Paul Knitter)등과 함께 가장 대표적인 종교 다원주의자로 알려져 있다.

한국에서의 경우 다원주의적 종교관은 김경재 장로교 인사들도 없지 않으나, 타종교와의 문제에 있어서 전향적 입장을 보여준 대표적인 학자들로는 윤성범(尹聖範), 유동식(東植), 변선환(邊鮮煥), 오강남(康男) 감리교 배경의 학자들이었다. 이들은기독교 신학 전통과 한국의 고유한 문화적 전통의 결합" 신학의 과제로 인식했던 이들로서 한국의 전통 종교문화 속에서 기독교의 원형을 찾으려고 시도하였다. 윤성범은 고대 단군 신화와 유교 속에서, 유동식은 무교(巫ヘ) 고대 풍류도(風流道) 속에서, 그리고 변선환은 선불교(仙佛ヘ) 속에서 기독교 신학의 내용인 창조론, 기독론, 속죄론, 구원론, 삼위일체 신론 등의 신학 구조를 찾아내려고 하였는데, 종교에 대해서도 장로교 신학자들 보다 개방적인 입장을 견지했다.

  특히 변선환은 다원주의적 입장의 대표적인 선도자라고 있다. 그는 종교는 서구신학에서 보는 신학의 수단이 아니라 오히려 목적이며, 신학의 객체가 아니라 주체가 됨으로타종교와 신학 아니라타종교의 신학 되어야 한다고 주장한다. 그는 한국신학은 대담하게 종교에 대한 서구적 편견, 우상화된 교회중심주의, 그리스도론의 배타적 절대성 3가지를 포기해야 한다고 주장한다. 변선환은 (John Hick) 마찬가지로 우주적 그리스도론의 입장에서 예수는 그리스도라고 있으나, 그리스도는 예수에게 국한 없다고 말한다. 세계의 모든 종교는 보편적인 그리스도의 은총과 관계되어 있으며, 모든 종교는 그리스도와 함께 하나님 나라의 실현을 향하는 도상의 길벗들이므로, 교회는 종교와 함께 하나님의 뜻을 실현하기 위해 협력하지 않으면 된다고 주장한다. 그는 결국  기독교는 진리와 생명에 이르는 유일의 배타적인 길이 아니라 오늘날 다원사회에서 그것은 하나의 길에 불과하다 하여 기독교의 절대성을 부인했다. 변선환 외에도 유동식, 오강남 등이 이런 입장을 보지하는 인물들인데, 비록 수는 많지 않으나 오늘의 한국교회에 영향을 주고 있다.

 

II. 종교 간의 대화와 협력

   이상에서 살펴본 바처럼 타종교에 대한 3가지 견해가 있을 있으나, 다수의 한국의 그리스도인들은 종교에 대해 배타적 견해를 가지고 있다. 신앙세계 2000 7월에 조사한 설문 조사에 의하면 목회자(평신도) 50.9%(43%) 종교를배격되어야 대상으로 이해했고, 15%(11.5%) 나의 종교와 경쟁관계에 있다고 인식했다. 인류사회를 위해 공존해야 대상으로 인식한 경우는 26.6%(28.66%) 지나지 않았다. 나머지 8.1%(17.3%) 관심 없다고 응답했다. 통계를 보면 한국교회 목회자(평신도) 65.5%(54.5%) 종교는 경쟁 상대이거나 배척해야할 대상으로 인식하고 있음을 있다.

  기독교 절대주의를 주창하는 배타적 성격의 그리스도인이 절대 다수인 한국의 기독교가 어떻게 종교와 협력하며, 한국사회가 안고 있는 난제들을 해소하는데 있어서 종교적 역할을 수행할 있을까?

 

1. 그리스도의 유일성은 타종교와의 협력을 경시하는가? 

  우선 종교에 대해 배타적 태도는 종교와의 대화나 협력 자체까지도 무시하거나 경시 하는 것은 아니라는 점을 간과해서는 된다. 종교에 대한배타적태도라고 말할 배타적이라는 개념은 구원도리에 있어서 그리스도의 유일성을 말하는 신학적 개념이지, 그것이 현세적인, 사회적인 개념을 의미하는 것으로 오해해서는 된다. 어떤 점에서는 배타적이라는 용어 자체가 기독교의 유일성을 말하는 정통 기독교의 입장을 곡해할 소지가 없지 않다. 사실 교의적 배타성은 기독교만이 아니라 사실은 모든 종교가 동일하게 견지하는 입장이라는 또한 고려해야 한다.

  어떻든 한국의 기독교는 그리스도의 절대성을 견지하면서도 이웃에 대한 사랑과 관심을 가지고 대화하고 협력함으로서 우리 사회가 안고 있는 난제들을 해결하는 일에 기여해야 한다고 본다. 이런 좋은 선례가 3.1운동 당시의 기독교였다. 당시 삼일 독립운동에 가담한 인구는 전체 인구의 10% 간주되는데 당시 한국기독교회는 운동의 주도적 역할을 감당했다. 당시 기독교인의 수는 인구의 1% 지나지 않았으나 불교, 천도교와 협력하여 삼일운동의 준비단계에서부터 선언문의 배포와 군중동원에 이르기까지 70% 이상의 역할을 감당하였다. 당시 기독교 지도자들이 불교나 천도교 지도자들과 협력하여 독립운동을 이끌어 갔으나  기독교의 절대성을 포기하지 않았고, 포기할 필요도 없었다. 다시 말하면 종교와의 대화와 협력이 복음을 타협하거나 부정하는 것이 아니며, 선교를 포기하는 것도 아님을 인식해야 한다.

 

2. 종교와의 대화와 협력

  비록 포용주의적 견해나 다원주의적 견해가 한국교회적 지지를 얻지 못하는 소수의견에 불과하지만 견해가 한국교회 일부 집단의 견해를 대변하고 있다는 점은 부인할 없다. 신학적으로 견해를 기독교의 절대성을 부인하는 혼합주의적 입장이라고 비판하지만 우리는 견해를 통해서도 배워야 점이 있다고 본다. 첫째, 종교와 종교권의 문화에서 종교에 내제한 정신적 가치, 도덕적 측면들, 윤리적 계도성 긍정성을 발견할 있다. 둘째, 다른 종교와의 대화와 협력의 가능성을 확인시켜 주었다는 점이다

  이런 점이 다원주의자들을 통해 얻은 유익이라고 한다면, 종교와의 대화에 대한 세계교회협의회의 꾸준한 노력과 결실들로부터도 배울 점이 있다고 생각한다. 다른 종교와 이념을 가진 이들과의 대화(Dialogue with People of other Faith and Ideologies)라는 주제로 발전된 여러 문서는 종교 간의 대화에도 유익한 지침을 준다고 본다. 종교 간의 차이를 인정하면서도, 상호 존중하는 가운데 상호 이해와 협력을 추구하는 것이 그것이다.

  결국 한국의 기독교는 비록 종교적 신념의 차이에도 불구하고 종교와의 협력을 통해 사회 발전에 기여하도록 힘쓰지 않으면 된다. 토인비는 현대의 각종 문제들, 물량주의, 사회악, 핵무기의 위험, 인구폭발, 공해 등에 적절히 대처하기 위해서는 자기종교의 독자성과 우월성을 포기해야 한다고 주장하고, 나의 종교만이 유일하고 참되다고 믿는 배타적 심성(exclusive-mindedness) 사악한 심성이며 그런 주장은 교만을 범하는 이라고 주장하지만 종교와의 협력을 위해 자기 종교의 고유성까지 포기해야 필요는 없을 것이다. 자기 신앙의 고수와 타종교와의 협력의 문제는 전혀 다른 차원의 문제이기 때문이다.

 

결론

  한국에서의 기독교는 종교적인 상황에서 전파되었고, 종교사회 속에서 자라왔다. 모든 사람은 자신의 종교와 상관없이 하나님의 일반 은총 속에 사고 있다. 기독교인들도자기 인식타자 인식에는 차이가 있을 있으나 민족 공동체의 일원으로 문화적 유산을 공유하며, 한데 어울려 살고 있다. 종교도 진선미를 추구하는 정신적, 도덕적 가치를 추구한다. 이런 점에서 기독교는 종교의 현실을 인정하고 관용해야 한다. 그리스도인은 그리스도의 가르침에 따라 구원의 복음을 전파하고 가르치고 제자 삼는 일에 힘쓰는 한편, 문화의 변혁을 위해서도 노력하지 않으면 된다. 교회공동체와 그리스도인은 종교와 협력하면서 역사에 대한 예언자적 책임, 새로운 문화의 창조, 도덕적 가치 고양을 위해 노력하지 않으면 된다. 이와 더불어 오늘의 한국사회가 직면한 사회적 난제들을 해결하고, 건실한 사회발전을 이룰 있도록 힘써야 한다. 이것이 한국기독교가 감당해야 종교적 역할일 것이다. 오늘의 한국 기독교회는 한국의 역사와 현실에서 어떤 역할과 기여를 것인가를 진지하게 질문해야 것이다.

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発題3.

韓国と日本のキリスト教における宗教間対話について

  承哲 (金城大学人間科学部教授)

1.  

一般によく指摘されているように、アジアに受容されたキリスト教信仰の特徴は、アジアの伝統的宗教との相互関係によって説明される。ローマを中心として形成されたキリスト教がヨーロッパやアメリカに伝播されていった状況とは異なり、アジアに宣教されたキリスト教は、すでにアジアの文化的・社会的基盤となっていたアジアの宗教との関わりを経験せざるを得なかったのである。
 
7世紀頃中国に伝えられたネストリウス派キリスト教(=景教)や、16世紀における日本の切支丹の状況は言うまでもなく、18世紀頃韓国(=朝鮮)にキリスト教が紹介された際にも、仏教や儒教、またアジアの宗教との対面は、キリスト教にとって避けられない課題であった。このようなプロセスを経て形成されたアジアのキリスト教信仰が、多様に評価されている一方で、キリスト教受容のための「解釈学的土壌」としてのアジアの宗教を排除するならば、アジアにおけるキリスト教信仰を完全に説明することは不可能であろう。1960年代後半に入って韓国で本格的なる議論の先駆けとなった「土着化神学」をめぐる論争も、その内容においては、アジアの宗教とキリスト教の関係に焦点が当てられたことは言うまでもない。また、日本で実践されているキリスト教と諸宗教との対話―たとえば、西田幾多郎の哲学やそれに基づいて構築された京都学派の思想を媒介として、キリスト教と仏教の対話を試みる八木誠一、本多正昭、小野寺功の神学的実践作業の場合―も、アジアという宗教的・文化的土壌にキリスト教を根付かせようとする試みに他ならない [1]
 
本発表では、韓日両国における宗教間の対話というテーマに対するお二方のご発表に傾聴しつつ、キリスト教がアジアの宗教と創造的相互関係を成し遂げるために、韓国と日本のキリスト教神学が担うべき役割について考察したい。

2.  

諸宗教の相互関係という問題を扱う場合、まず宗教間の対話が包含する社会的・実践的側面に焦点を当てながら、宗教間の対話の当為性と必要性を力説する方法がある。また、次に理論的・教理的側面からキリスト教と他宗教の相互関係の可能性を論じる際に、そのような相互関係を通じて起こり得る変容の可能性を強調する方法もあり得る。勿論、前者が宗教間の教理上の相互関係を排除するということではなく、また後者が社会的問題をめぐる宗教間の協力の必要性を無視することでもない。 
 
このような事柄は、宗教間の対話が少なくとも三つの次元で実践されるという事実からも理解できよう。その三つの次元とは、「実践的次元」、「理論的次元」、そして「霊性的次元」における宗教間の相互関係を意味する。宗教間の対話が包含するこのような三つの次元は、それぞれの次元に含まれている歴史的局面と共に多層的な様相を露呈するに相違ないが、これらの三つの次元の統合が要求されるのも事実であろう。
 
このような事実を念頭に置きながら、特に日本と韓国における宗教間の対話について考慮する際に、我々は次のような課題に直面することになるであろう。
 
まず最初に、お二方の発表論文の中においても十分に指摘されているように、宗教間の対話に対する神学的要請と信仰する側の意識の間には、深刻な「ギャップ」が存在している。しかし、宗教間の対話について具体的に論じようとするならば、こうした「ギャップ」を生み出す主体とその内容について綿密に分析する必要がある。
 
韓国キリスト教を中心に宗教間の対話について論じる際、こうした「ギャップ」は、まず聖職者と一般信徒の間の意識の格差として現れる。即ち、宗教間の対話の必要性とそういった対話が円滑に成し遂げられていない現実との 「ギャップ」は、一般信徒の間で認識される以上に、聖職者の状況においてもっと明白であるということである。このような現象は、特にプロテスタントにおいて目立っている。
 
たとえば、1990年に実施された「韓国ギャラップ」の世論調査によると、「世の中ではたった一つの絶対な宗教があるのではなく、様々な宗教のほとんどが基本的真理と意味を持っている」という見解について、カトリック信者の77%、プロテスタントの55%が「そうである」と答えたという(仏教の場合は64%が肯定的に答えた)。さらに、1998年、同じく「韓国ギャラップ」が調査し、発表した『韓国人の宗教と宗教意識』」によれば、「多くの宗教の教理は、互いに異なるようにみえても、結局のところは同じもしくは類似した真理を教えている」という包容的な態度を表明した数値は、韓国人全体の80.0%、カトリック信者の85.4%、プロテスタントの61.7%、仏教信徒の87.0%に達していた。
 
ところが、他宗教を「人類社会のために共存しなければならない対象」として認める比率(1990年度「韓国ギャラップ」の調査による)は、プロテスタント教会の聖職者の29.9%に止まった。カトリック聖職者の85.7%と仏教僧侶の81.7%は、上記の質問について「認める」と答えたという [2]
 
韓国のプロテスタント教会の場合、聖職者と一般の信徒の間の「ギャップ」が目立っているが、これを克服するためには、宗教的に多元化した現実における神学的意味について考察する神学教育が行われねばならない。実際、一般信徒の場合、現実に多様な宗教が共存している世界で生活しているため、彼らの宗教意識は、表に現れた数値よりはるかに開放的であるかも知れない。ただし彼らは、自分たちの宗教的感覚を「神学的な」用語で言い表すことに慣れていないだけということではないはずである。また、教会も信徒らが経験する宗教的多元性を信仰的に受け入れる方法を教示することができると断言できないのが、現実の状態であろう。
 
多元化した現実の中で行われる神学教育は、宗教と神学の多様性を教える必要がある。また、これは後に触れることになるが、韓国と日本の場合、宣教師によって伝えられたキリスト教理解が、歴史的特殊性と限界性を持っているということの自覚とも軌を共にしている。
 
第二に言えることは、上記で論じた「ギャップ」は、宗教間の対話に対して各々の教派が示す教理間の「ギャップ」としても現れるということである。韓国キリスト教の中で存在する教派の傾向は、「根本主義」、「自由主義」、「急進主義」と分類される。しかし、このような分類が果たしてどの程度、客観的適合性を維持できるかという問題を一旦論外視することができるならば、こうした教派的差異は他宗教理解の格差として反映されているといえる。こうした事実は、「福音主義的キリスト教」、「文化主義的キリスト教」、「社会主義的キリスト教」と分類される日本のキリスト教が、他宗教に対して示す態度を考察することによっても裏づけられる [3]
 
ならば、如何にこうした教派的多様性が、宗教間の対話のために生産的な結果を生み出すことができるかという神学的問題が次第に浮上することになる。
 
各々の教派は、特殊な歴史的状況を背景に、それぞれの伝統を形成しながらキリスト教の本質をも追求しつつあるとすれば、教派間のエキュメニカル(普遍的)な対話は当然、必要であると思われる。特に、宗教間の対話という主題を考察する際、他宗教への包容的・開放的態度は、それぞれの宗教の内部において存在する多様な解釈(=教派)の間のエキュメニカルな態度と同源的である。
 
また第三に、宗教間の対話において存在する「ギャップ」は、教理上の絶対性の主張と、社会的次元における協力という二つの次元の間の「ギャップ」でもある。実践的次元での対話と理論的・教理的次元での対話が、単に平行移動するだけという状況を越え、両者の間の「ギャップ」を克服しようとする試みも真剣に行われねばならない。なぜならば、信仰とは、信仰者の内・外の統合を求めるからである。こうした統合へ至るための具体的な試みは、まず教理の本質を問うとことから始まる。
 
教会史学者のA・ハルナクが語っているように、教理とは「キリスト教の福音とギリシャの哲学との相互関係によって作り上げられたもの」と定義するならば、教理の中には、キリスト教が置かれていた歴史的特殊性が刻み込まれているはずである。そして、歴史的偶然性によって構築されたキリスト教の教理が、キリスト教の特殊性を形成しているのは事実といえるものの、そういった歴史的特殊性をキリスト教の本質と同一視してはならないであろう。
 
キリスト教の本質を理解しようとする試みは、宗教の本質への問いかけであるということは言うまでもないが、宗教間の対話が目指す到達点である。それと同時に、宗教間の対話は、常にそのキリスト教の本質理解の試みを中心としている。このような意味で、「宗教間対話」(inter-religious dialogue)は、「宗教内的対話」(intra-religious dialogue)へ進展していかねばならないというR・パニカーの指摘は正鵠を射るといえる [4] というのは、宗教間の対話によってキリスト教に対する新しい理解が生まれる際に初めて、キリスト教は宗教的次元での宗教間の対話に臨むことになるからである。
 
そして第四に考察すべきことは、宗教間の対話が実を結ぶためには、韓国と日本のキリスト教の交流が切実に要望される。それは、両国は、互いに類似した宗教的・文化的背景を基盤としながら西欧のキリスト教を受け入れてきたからである。こうした交流は、両国の間に存在する数多くの「ギャップ」を乗り越え、共存と協力の道を模索するための信仰的・神学的努力の一環となる。
 
実際、両国の間には、すでに神学的交流が行われつつある。たとえば、内村鑑三で代表される日本の「無教会主義」の信仰は、金教臣や崔泰鎔に代表される韓国の民族主義的キリスト教者によって積極的に受容された。また、最近日本の神学者の栗林輝夫は、自らの『荊冠の神学』(徐正民・趙載国訳、『차별받는 그리스도 』ダサングルバン)を韓国の民衆神学との対話の結実として紹介するが、これも両国の神学の交わりの一例を現している。
 
しかし、諸宗教との対話を試みる両国の神学の間には、未だ本格的な交流は行われていないと云える。西洋のキリスト教を単に模倣する段階をのり越え、自分の状況に基づいた信仰のパラダイムを生み出すところに到達するためには、日本と韓国のキリスト教の協力が期待される。たとえば、キリスト教と他宗教の対話を追求しつつある「日本NCC宗教研究所」の試みや、特に仏教との対話に積極的に臨んでいる「南山宗教文化研究所」等の研究成果は、韓国における宗教間の対話のために多くの論点を提供するはずである [5]
  
第五番目に、キリスト教のアジア的解釈は、いわゆる「他」宗教への「オリエンタリズム的」(エドワード・サイド)解釈を理解しなければならないが、この解釈は、西欧で形成されたキリスト教神学とアジア的宗教性によって構築された神学の間の「ギャップ」を直視する一方で、そういった「ギャップ」を神学的有意味性として受け入れる神学的パラダイムを要求する(特にこのような点に対して、韓国と日本の神学的交流は大きく貢献することができる)
 
アジアのキリスト教者にとって、「他」宗教とは、自分の「外に存在する他者」ではなく、自分の「内に存在する他者」である。彼らにとって「他」宗教との対話は、自分の「内に存在する他者」との対話に他ならない。自らの「外」に存在すると考える他者は「内に存在する他者」であり、その「内に存在する他者」が自らにとって構成的他者であるということを自覚するとき、他宗教との対話は以前とは異なる姿をとるであろう。
 
そしてこのような 「内に存在する他者」の理解は、実際はキリスト教信仰の理解方式とも直結する。なぜならば、キリスト教が告白している神とは、「肉となってわたしたちの間に宿られた」(ヨハネによる福音書1.14)「絶対他者」としての神だからである。

3.

  宗教間の対話と協力が、実際に始まったのは最近ではない。すでに1919年の三・一運動がそういう宗教の間の協力のためのモデルとなっており、「クリスチャン・アカデミー」を中心にした宗教間の対話は、すでに1960年代から始まっている。また、1970年代の政治的参与においても、キリスト教は他宗教と連帯してきた。さらに、最近活発性を増している市民運動においても、環境問題、人権問題、生命倫理の問題等に直面している両国の市民社会は、宗教の壁を越えて協力し合うための知恵を分かち合っている。
 
宗教間の対話に対する時代の要求は、次第に強まっている。こうした現象は、21世紀の政治的・社会的状況によるものに相違ないであろうが、今日のキリスト教は、他宗教との相互関係によって神学的次元のパラダイム転移を図らねばならない段階にまで至っている。
 
日本と韓国のキリスト教は、神学的次元で宗教間の対話を積極的に成し遂げるために、互いに学び合うところが多いであろう。キリスト教による両国の相互関係は、文化と文化、宗教と宗教の間の「壁を取り壊し」、「平和」を築くキリストへの信仰の中で可能となり、また、そうした信仰の形成に向かって進んでいかねばならないという結論に至りたい。(エフェソの信徒への手紙2.14〜15)



[1] ヤン・ヴァン・ブラフト、「オリエンテ-ション」南山宗教文化研究所 , キリスト教は仏教から何を学べるか 法蔵館、1999年、9頁以下。参照。浅見洋、『西田幾多郎とキリスト教の対話』朝文社、2000年。西欧においても京都学派の思想を神学的に積極的に受け入れようとする試みは、すでに1980年代から始まった。代表的な著書としては、Hans Waldenfels, Absolutes Nichts (拙訳、『불교의 공과 하느님』大園精舎) Fritz Buri, Der Buddha-Christus als der Herr des wahren Selbst Paul Haupt,1982などをあげることができるだろう。

[2] 李園奎、『韓国の教会、どこへ行くのか』大韓基督教書会、2000年、240頁。

[3] 柳東植、『韓国神学の鉱脈』 展望社、1982年、133頁;桑田秀延, 『日本の神学思想史に現われた神学の問題と人物』キリスト新聞社、1976年;拙稿、「日本神学の三つの様態に対する予備的考察」『韓日研究』(耕人李鍾錫博士古稀紀念論文集)(1999) 573594頁。

[4] Raimundo Panikkar, The Intra-religious Dialogue 拙訳、『宗教の間の対話』曙光社、1992年。

[5] Martin Repp, NCC Center for the Study of Japanese Religions in Kyoto: 35 Years of Interreligious Encounter in an Ecumenical Context Inter-Religio 24(1993) p.23ff.;キリスト教と仏教の対話を中心にした 南山宗教文化研究所の歩みについては、ヤン・ヴァン・ブラフト/ 渡辺学 、「南山宗教文化研究所の歩み」南山宗教文化研究所編、『宗教と宗教との「あいだ」』風媒社、2000年、379393頁。現在まで同研究所によって開かれたシンポジウムの中で、キリスト教と仏教の対話に直接的に関わるテーマは、次のようなものであった。『絶対無と神―西田・田辺哲学の伝統とキリスト教』(1980);『密教とキリスト教―歴史宗教と民俗宗教』(1985);『天台仏教とキリスト教―宗教における理と行』(1987);『浄土とキリスト教―宗教における救済と自覚』(1989);『カトリックと創価学会―信仰、構造、社会的実践』(1995);『キリスト教は仏教から何を学べるか』(1999)


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