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グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成

NEWS LETTER

(文学と言語を通してみたグローバル化の歴史)


No.6

2004年9月3日発行

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(主な内容)
新しいメンバーの紹介
特別講演会報告
第7回研究会の発表要旨
 他

<今年度から参加されている研究会メンバーの紹介>
今年度から新しく参加されることになった研究会のメンバーを紹介します。

中川さつき(京都大学文学研究科非常勤講師:イタリア語学イタリア文学)
 十八世紀における宮廷オペラの台本研究
   十八世紀のウィーンは、ナポリやローマに匹敵するイタリアオペラの中心地であった。ハプスブルク皇帝は、イタリア半島から最高の歌手、 作曲家、舞台装置家、 詩人をウィーンの宮廷に集め莫大な予算を投じてオペラを作らせた。アーチストたちは、1シーズンだけの契約で移動する者から、 半生をウィーンで過ごす者まで、 滞在期間はさまざまであるが、つねに相当な数のイタリア人が宮廷で活躍していた。高度な技能を持つ専門家集団が、 異なる文化圏で活動した背景には、どのような状況があったのだろうか。 また、彼らは訪れた土地でどのように迎えられ、いかなる足跡を残したのだろうか。
   この研究では、カール六世とマリア・テレジアの時代における、イタリアオペラの受容のありかたを、特に宮廷詩人(オペラの台本作家)の活動を中心に して考察する。

  また、学生の研究会メンバーも合わせて紹介します。
武田良材(ドイツ文学博士課程):20世紀ドイツ亡命文学
広川直幸(西洋古典博士課程):古典テクストの受容と再生
山下修一(西洋古典博士課程):古代ギリシアにおける世界観と民族意識


<COE34研究会国際シンポジウム報告>

COE研究会国際シンポジウム特別講演会

  6月1日(火)午後3時から5時 於:京大会館

    講師:C. F. L. Austin (ケンブリッジ大学古典学部教授)
 演題:Greek Comedy: how it all started.

   今回のシンポジウムでは、ケンブリッジ大学古典学部教授、C. F. L. Austin 教授をお招きし、特別講演会を行った。オースティン教授はパピルス解読、 ギリシア喜劇のテクスト校訂における第一人者であり、今回はギリシア喜劇の成立について、広くヨーロッパ演劇に関心をお持ちの方々に向けてのお話をしていただいた。
   出席者は講演会に41名、懇親会に43名、活発な質疑応答が行われた。


<研究発表の要旨>

   Ancient critics distinguished three main periods in the history of Greek comedy: the old comedy of the 5th century, whose main representatives were Eupolis, Cratinus and Aristophanes.
   Their plays were full of poetic fantasy and nonsense, as well as savage and obscene attacks on notorious individuals, like the politician Cleon, etc.
   One important factor of this origin is the major influence of Tragedy on early Attic comedy. They have always flourished together in the same theater and have the same cult and the same religious background. Both have served and honored the same god, Dionysus.
   About the other element, Aristotle said comedy originated from those who led the phallic songs. Some of these performers wore masks and what is more important made fun of the bystanders.
   From themselves there emerges suddenly a tough guy full of initiative and imagination who is ready to pay back this aggressive band in its own coin and reduce it to silence. Insults are thrown on both sides and the whole thing quickly degenerates into a pitch battle. And this is what you can still see under various forms, in many plays of Aristophanes.
   A drunken band of revellers is called in Greek a comos and comedy derives from this word.
   Three main predecessors of Aristophanes were Magnes, Cratinus and Crates.
   But of course the master of the genre was Aristophanes.


<COE34研究会講演会報告>

<COE34研究会講演会>

  6月3日(木) 午後4時30分から6時30分 於:文学部新館1講義室

 参加者 20人
 講師:ルネ・ドゥペストル (ハイチの作家・詩人)
 演題:「トゥーサン・ルーヴェルチュールからエメ・セゼールまで」

<講演概要>

   トゥーサン・ルーヴェルチュールは、1743年にハイチの第2世代の奴隷として生まれ、独学で歴史書や啓蒙思想書に親しむと同時に、フランス革命思想に共鳴し、その原理を非ヨーロッパにまで押し広げようとした。しかし、当時のフランスの時代意識にとっては、反植民地主義・反奴隷制という政治的な概念はまだ縁遠い物にとどまっていて、パリの議会はなかなか植民地の奴隷解放運動に理解を示さなかった。にもかかわらず、トゥーサン・ルーベルチュールはフランス革命原理の中で「黒人革命」を実現しなければならないという信念を持ち、さらにそれによって「奴隷解放運動」へと革命原理を世界化、普遍化したのだった。
   彼は1794年から1801年まで植民地総監督としてフランス化した「コモンウェルス」の可能性を示唆し、サン・ドマング独自の憲法を起草し、公布した。しかしナポレオンはそのような彼の行動の中に自らの権力を脅かす物を感じ、彼を捕らえ、1803年ジュラの要塞で獄死させることになる。
   20世紀のマルチニックの偉大な詩人であるエメ・セゼールは、トゥーサン・ルーベルチュールの精神的遺産の相続者として、1930年代にいわゆる「ネグリチュード」運動を引き起こす。この運動は単なる政治運動を超え、当時のパリの芸術と文学のアヴァン・ギャルドをも巻き込んだ、新しい「自我」のあり方を求めるうねりとなっていく。しかしその思想はセゼールにおいては理論的形ではなく、叙情的形を取って、その詩作に、例えば長編詩『帰郷ノート』にもっともよく表される。そこに表明された彼の精神的実存体験は、ルーベルチュールと同じ友愛の精神に結びつき、国際的市民社会における血の通った人間性を目指すものであるように思われる。



<第7回研究会の発表要旨>

宮嵜克裕:19世紀後半のフランスにおける文学場の自律化過程の一側面
―1894年におけるマラルメの『文学基金』の提言とその受容を中心にして

   ドレフュス事件が勃発する1894年、マラルメは「フィガロ」紙8月17日号に「文学基金」という記事を寄せている。そこでは、過去の文学的著作物を再版する出版業者に対し税を課し、 それを文学基金として文学を志す不遇な青年作家たちへの援助とすべきであるという案が提唱されている。この提言は当時、知的所有権を巡って、文学者のみならず、 出版界、法曹界、政界をも巻き込む論争を惹起したが、ある意味でこれは<文学場>に対して支配的位置にある<政治場>・<経済場>からの、 詩人による独立要求と解釈することができる。マラルメのこの理念の背後にあるのは、文学的著作物を政治・経済の圏域から自律した圏域として捉えようとする <公共の領域>という概念である。ところで、この時期発表されたマラルメ晩年の詩論「詩の危機」のプレオリジナル・テクスト群には、詩句の<定型>を詩的言表の主体間の相互関係性、 詩的言表の反復性、さらに詩的言表の集積性を可能にする空間として捉えようとする特異な<定型>概念が認められる。この<定型>概念と、<公共の領域>概念との間には顕著な相同性が窺われる。 なぜなら、社会空間に内在する権力場から自律した圏域として位置づけられる<公共の領域>も、また、言表空間内において詩句の<定型>性が切り開く詩的言表の空間も、 ともにその所有権の非帰属性、起源の無根拠性を根拠とする非人称的な共同性の場としての特質を有しているからである。 したがって、マラルメにおける<公共の領域>概念は、彼の<定型>概念自体に由来するものと考えられ、さらに、この<定型>概念がこの時期、マラルメにおいて社会的な位相を帯び始めていたと考えられる。 P. ブルデューは、<文学場>が高度の自律性を獲得し始める時期をゾラとドレフュス事件以降に位置づけているが(『芸術の規則』)、このマラルメの「文学基金」構想もまた、ゾラとは異なる次元で、 <文学場>が自律性に向かって変容していく過程の一つの結節点としての歴史的意義を持つのではないであろうか。


齊藤泰弘:ゴルドーニ自身の解説から見た彼の喜劇の自己評価について
―1756年の『別荘生活』の場合―

   《チチズベオ》(夫の代わりに妻のお伴をするエスコート役の騎士)の風習は、17世紀末頃に始まって、急速にイタリア全土の貴族階級に広まり、貴族社会が市民革命によって崩壊するまでの1世紀余りにわたって一世を風靡した社会現象である。ゴルドーニは、この極めてイタリア的で、優れて貴族的で、密かに反教会的な風俗現象を何度も取り上げ、その行き過ぎた風習の滑稽さを笑っているが、ゴルドーニはこの都市貴族の風俗現象にかなり寛容な態度を取っているように見える。とりわけ、1756年の『別荘生活』は、いわば騎士道精神の理論的核心部分をめぐるドラマであり、貴婦人とその公認の恋人のプラトニックな愛と《本物の忠節》の勝利を高らかに称えているように見える。ゴルドーニがこの作品で本当に伝えたかったメッセージを明らかにする手懸りは、作者自身が語った自作についての3つの解説である。
   @1758年の作品解説《作者から読者へ》: 《この喜劇は、いくつかの場面でもっと熱を込めずに、立派に言おうという気持ちをもっと抑えて書いていたなら、もっと成功していたように思う。ある殿方には(あるいは、あるご婦人方には)、外国帰りの旅行者がイタリアに持ち込んだ思想は、少々無礼なものに思われ、もし万が一この考えがいくらかでも広まったなら、騎士道の王国はめちゃくちゃになるだろうと恐れている。ああ、まさにその通り。だが、この真理を好意的な目で見てくれる人は、ほとんどいないのだ! 親愛なる読者よ、私にはお話したいことが色々とあるのだが、残念ながらその時間がない。ローマに出発する時間が迫っていて・・・》 作品解説はここで終り、後はこの3倍のスペースを費やして、ローマでの滞在予定についてのお喋りが続いている。《お話したいことが色々とある》と言いながら、そのことに触れるのを避けているのは、一体なぜなのか、この疑問を明らかにした人はいない。
   A1760年の作品解説の詩: 《貴族の人は、下層階級が批判されるのは嬉しそうに聞いているが、自分の気に入らないことを聞かされるのは嫌がる。たとえば、私の『別荘生活』が、あれこれ槍玉に挙げられたようだが、それは、この劇を見た誰かさんが、自分が槍玉に挙げられたと感じたからだ。あの連中は、「あれは良くない」とか「あれは良い」とは言わずに、「ある種の風俗を鳴り物入りで広めるのは良くない」と言うのだ。》 この文中の《ある種の風俗》とは別荘で博打と女漁りと飽食に明け暮れる貴族たちの背徳的な生活だけでなく、別荘で繰り広げられるチチズべオの習慣全般までも含んでおり、同時にここには、自分の悪徳を批判されても、一向に改めようとしない貴族階級への強い苛立ちがある。
   B1787年の『回想録』での解説。ゴルドーニは、『別荘生活』の登場人物たちに対して極めて厳しい態度を取っている。そこでは、貴族全員がチチズベオとして一括りにされ、全員が同罪として冷たく突き放されている: 《ドンナ・ラヴィーニアの別荘にやって来たドンナ・フローリダは、自分のお伴の騎士を同伴している。別荘の女主人も自分の騎士を伴っている。そこに嫉妬が忍び込む。散歩は偶然の出会いをもたらし、人々はそれを逢引だと勘ぐる。女友だちは仲違いし、偽の頭痛を口実に、季節の真っ盛りに別荘生活を中断する。貴婦人たちは町に向かって出発し、伊達男たちもそれに付き従って帰り、幕が下りる。この喜劇には我々の関心をそそるものはないが・・・》
   しかも、この文と原作との間には大きな不一致がある。ここでは《散歩は偶然の出会いをもたらし、人々はそれを逢引だと勘ぐる》と述べられているが、原作にこのような場面はなく、この場面と対応しているのは、チチズベオたちの騎士道をめぐる議論の場である。そして、《この喜劇には我々の関心をそそるものはない》という言葉は、このような原作のテーマが、ゴルドーニのような中産階級出身の文学者やフランス人の読者にとっては、それほど関心をそそられるテーマではないことを告げている。それゆえ、ゴルドーニが、騎士道をめぐる議論の場面を散歩の場面に改竄したのは、こうしたなら、もっとドラマチックな舞台になったはずだ、という後悔の念に由来するのではないか。
   最後に@の1758年の《作者から読者へ》に戻って、その奇妙な作品解説の中断の理由を考えてみる。1756年にこの作品の上演に立ち会った観客は、幕切れでの女主人公の騎士道と《本物の忠節》を賞賛する演説に拍手喝采したようである。だが、このようなチチズベオ風俗の賞賛は、ゴルドーニにとって予想外のことであった。彼は観客の心をドラマに深く惹きつけながらも、同時に彼ら自身にその登場人物たちの風俗を断罪させたかったからである。この作者の密かな期待は裏切られ、ゴルドーニは、観客たちへの不満や嘆きを決して口にするような人ではなかったが、つい口から漏れそうになった落胆の言葉を、次のような口実で封印しようとしたのであろう: 《私にはお話したいことが色々とあるのだが、残念ながらその時間がない。ローマに出発する時間が迫っていて・・・》  〔了〕


<活動状況>
 ◎第7回研究会 2004.4.15 14時半から18時 所:文学部東館4階会議室
  出席者:奥田朱美、田口紀子、津田雅之、増田真、宮嵜克裕。天野恵、斎藤 泰弘、澤田るい、杉栄子、原屋美里、深草真由子、藤井裕一。高橋宏幸、高畑 時子、中務哲郎、広川直幸、藤井琢磨、山下修一。川島隆、佐々木茂人、武田 良材、西村雅樹、松村朋彦。服部薫。

下記の研究発表に続いて質疑応答と討論を行った.
 [研究発表]
 ・宮嵜克裕:19世紀後半フランスにおける文学場の自律化過程の一側面
  ―1894年におけるマラルメの『文学基金』の提言とその受容を中心にして
 ・齊藤泰弘:ゴルドーニが『別荘生活』で伝えたかった真のメッセージは何か?

<今後の予定>
 ◎第8回COE研究会
 10月初めを予定しております。決まり次第お知らせいたします。