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国際シンポジウム「歴史学の現在を問う」

「朝鮮燕行使と朝鮮通信使」に対するコメント

本研究科教授 日本史学  藤井讓治

 日本近世史を研究している私にとって、自ら取り上げたこともある朝鮮通信使については、一定の理解と評価をもってきた。しかし、朝鮮燕行使については、その存在については承知していたものの、夫馬先生の報告を聞くまでそれほど詳細なことを知っていたわけではなく、多くを学ばせていただいた。

 報告を聞いてまず、燕行使が494回、朝鮮通信使が12回という数が象徴的に示すように、朝鮮とそれぞれの国とを結ぶパイプの太さの違いに驚き、この違いがそれぞれの国との関係にもたらした影響は大きく異なるはずであり、この二つの使節を同列に論じてよいかというのが、気がかりとなった印象的問題点である。

 こうした点を意識しつつ、私の専門である江戸時代の政治史という立場から夫馬先生の報告に対して二、三、コメントを記すことにする。

 第1点は、外交におけるそれぞれの「国」の立場についてである。報告のように、朝鮮の立場からすれば、通信使の派遣というのは、確かに日本による再侵略を恐れて、夷狄である日本を慰撫し、再度の侵略を防止するためのものであった。しかし、日本の側の立場は少し異なり、鎖国という状況をつくり上げる中で一層強くなっていくが、オランダや琉球、少し性格は違うが蝦夷も含めて朝鮮などの「異国」から来た使節を朝貢とみなすことで、日本を中心とした国際秩序、いいかえれば日本が中華であり朝貢する「異国」を夷とする、小中華秩序を作り上げ、それを梃子に国内政治を安定させることを大きな目的としていたのである。 両者の立場は随分異なるが、ここで興味深い点は、朝鮮通信使をめぐって、朝鮮のほうは当然日本を夷狄と考えている、それに対して日本は朝鮮を夷と捉えており、明らかに両者の考えは矛盾する。実際の外交において、国と国とが交渉する場でこの問題がもし取り上げられるとすれば大きな衝突になったはずである。夫馬先生が紹介された宴席の場であっても、やはり朝鮮の人々が清国の漢人に対して、満人の支配を受けていることを話題にすると大きな衝突となったようだが、それ以上に正式の場でそういうことが問題になれば、重大問題になったはずである。しかし、現実にはそういうことはほとんど起きていない。もちろん朝鮮通信使が日本においてさまざまな儀礼上の格下げを受けたことで問題が起こったことは確かであるが、それほど大きな衝突というふうにはならなかった。

 報告を聞いて一層その感を強くしたのは、外交というのは、それぞれの国においてそれぞれの国の人々に説明ができれば、相手がどう思っていようと余り問題ではない、そういうと極めていいかげんなことのようにも聞こえるかもしれないが、現在の外交でも同じようなところがあり、前近代では一層そうであったのではないかということである。どちらもそのことを知らないわけではなく、知っていてそうやっているというのが実態ではないか。だから、外交ということを考えるときには、こうした点を踏まえて事を考え評価せねばならないと思う。

 第2点目は、報告のなかでの日本朱子学についてである。朝鮮の人々が日本で朱子学が衰退することを大変恐れていたと指摘された点である。この点については、反対というのではないが、指摘されたことをいかに位置づけるかということである。確かに伊藤仁斎の古学の考え方が日本で一定の勢力を持ち、そして江戸中期になると折衷学派がかなり多くの藩校でも取り入れられ、広く受容されるようになったことは確かである。しかし、報告であげられた明和とその次の文化の朝鮮通信使の間の寛政期に、松平定信による寛政の改革がある。この改革に際し幕府は朱子学以外の学問は「異学」とする政策を実施している。これによってすべての藩校での学問が朱子学となったかというとそうではないが、それでもかなりの大きな影響があり、政治的には朱子学が当時の政治権力が最も支持した学問であった。この点を朝鮮通信使はどのように認識していたのか、そこにはズレがあるのではないか、そのズレはどうして起こったのかを考える必要があるのではなかろうか。

 最後に、1811年(文化8年)の朝鮮通信使について、主として日本側の問題として二、三述べておく。 まず、朝鮮通信使は、従来通りであれば江戸まで来るのだが、このときは対馬までしか来ていない。ということは、この時の通信使は、江戸の事情あるいは日本の事情については他の通信使より一層知ることのできない状況であり、極めて限定された情報しか得ることができておらず、彼らの情報がどれほど当時の日本情報として意味があったのか、この点の位置づけが必要であろう。また、対馬で聘礼を済ませたことの日本側の事情は、大きくは二つ考えられる。その1つは財政的な問題である。通信使は大体500名前後の人員であり、日本に入るとすべての費用は日本側の負担となる。江戸滞在は幕府が担うが、それ以外は道中の大名たちがその費用負担をした。そしてその費用は実際にはその周辺の百姓たちに割り付けられるという状況があり、この費用の多さが以前から問題となっていた。この解消がこの対馬聘礼となった理由の一つである。しかし、これはこの時代の窮乏化をみせる領主財政一般の問題であり、これが対馬聘礼となった最大の理由ではない。文化の朝鮮通信使が対馬聘礼であり、その後は停止したこともあわせ考える必要がある。先に触れたように江戸初期以来、幕府は日本を小中華とし周辺の国々を夷としてつくり上げた秩序(日本型華夷秩序)は、この時期にはもはや意味をなさなくなってきた。例えば1778年にロシアが松前にやって来て通交を求める。またラックスマンが根室にやって来る。19世紀に入ると、文化の通信使の直前にフェートン号事件が起こる。こうした事態は、明らかに朝鮮や蝦夷や琉球だけの位置づけだけでは済まない国際状況が生まれていることを示している。 また他方で、林子平が『海国兵談』を著したように、日本人の国際認識が大きく変化しだしたことも見落とせない。こうした状況が、財政状況ともあいまって、文化の朝鮮通信使を対馬で止め、その後停止することになる最も大きな理由であったと思われる。

[→報告2]