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国際シンポジウム「歴史学の現在を問う」

「究極のナショナル・ヒストリー?―ピエール・ノラと『記憶の場』―」

本学研究科教授 西洋史学 谷川 稔

 この公開シンポジウムでは、私自身の専門を離れ、より一般的な歴史学方法論をめぐる素材を提供し、共通論題となっている「歴史学の現在」の一端を考えていくことにしたい。その素材として、今月に日本語版の第1巻が公刊されたばかりのピエール・ノラ編(谷川稔監訳)『記憶の場』(岩波書店)を取り上げる。原著は、フランスの歴史家ピエール・ノラが1984年から1992年にかけて編纂した浩瀚な論文集 Les lieux de mémoire 全7巻、記念碑的労作として知られている。近年、日本でもおおいに語られる「記憶」あるいは「記憶と歴史」という流行語の源となった本家本元の作品である。

(1) 学術ジャーナリスト、ノラ

(省略)

(2)『記憶の場』―その構成と歩み―

 この学術ジャーナリスト、ノラが、2001年6月、アカデミー・フランセーズの会員に選出された。定員40名の終身会員、フランスの学者としては最高の栄誉である。これといった単著の学術書を残していない彼の選出は、『記憶の場』の編纂事業がいかに高く評価されたかを物語っている。私も、雑誌『思想』の小特集で、『記憶の場』の出版を「史学史上の事件」と評したことがあったが、すくなくともフランスの学界においては誇張でなかったことになるだろう。もっとも当時、私はノラ個人が学界の最高権威として顕彰されるという図はあまり予想してはおらず、そういう権威にはなりそうもないという点が気にいっていたのだが。たしかに彼は、1997年までアナール派の牙城、社会科学高等研究院の研究指導教授をつとめていた。広義のアカデミシャンにちがいないが、たんなる学者でもない。それだけに、ノラのアカデミー入りは、『記憶の場』の刊行それ自体が今やひとつの歴史となり、文字どおり史学史のなかで顕彰さるべき対象に移行した、ということになる。これは「史学史上の事件」の後日談のひとつにすぎないが、いろんな意味で象徴的な「再記憶化」の儀式と言ってよい。

 たしかに、ノラの企画は壮途というべきものであった。120名もの歴史家を動員し、130編(総論的なものを加えれば135編)のエッセイを収めたこのシリーズは、全7巻、5600頁以上にもおよび、8年をかけてようやく完結した。執筆・準備期間を含めると、おそらく10年以上にわたる遠大な事業である。ジャック・ルゴフ、E・ル=ロワ=ラデュリ、モーリス・アギュロン、アラン・コルバン、ロジェ・シャルチエといった当代一級の歴史家たちを総動員した執筆陣のレヴェルもさることながら、それが、「集合的記憶を表象する場」の分析をとおして「フランス的国民意識のあり方を探る」という、単一の、きわめて繊細なテーマをめぐって展開されたことにも驚かされる。そしてこの企画は大当たりし、ついには「記憶の場 lieux de mémoire」という単語が、ロベールのフランス語大辞典に登場するまでになった。しかも、「記憶の場」という概念はフランス国内での顕彰という狭い枠をこえて、世界各地で反響を呼んでいく。たとえばドイツ、オーストリア、オランダ、イタリアなどでも同様の企画が準備され、すでに公刊されたものや、逐次刊行中のものがある。また、独自にパブリック・メモリー論が盛んになったアメリカでは、1996年から98年にかけて、原著から44本の論文を厳選した2000頁におよぶ、3巻仕立ての英語版がコロンビア大学出版局から公刊されている。『記憶の領域 Realms of Memory』と題したこの3巻本の編集作業には、じつはノラ自身が深くかかわっていた(ちなみに、日本語版には全然関わってくれていないのだが)。つまり、この英語版は原著の3分の1ながら、フランス語版編集の反省に立って「重要な修正を加えたひとつのミクロ・コスモス」である。『記憶の場』は第1巻刊行の1984年から、第3部第3巻(通巻7巻つまり最終巻)刊行の1992年まで、試行錯誤をくりかえし、コンセプトを修正しながら進化をとげてきたが、英語版(コロンビア版)はこの進化の延長線上にあって、原著のエッセンスがコンパクトに凝縮された独立の作品だと言えよう。この進化の過程はワンセットとして解釈し直すべきだと思われる。

 しかもこの12年間の歩みは、世界史の構造が劇的に転換した時期にあたっている。奇しくもフランス革命二〇〇年祭にあたる1989年には天安門事件、東欧革命からベルリンの壁が崩壊し、91年にはソ連邦が解体していく。戦後の冷戦構造が終わりを告げ、米ソ二極対立からアメリカの一極支配へと移行した。他方、東欧をはじめ世界各地でエスノ・ナショナリズムが爆発し、地域紛争が噴出する。ヨーロッパ諸国がEUに活路をもとめてゆくなかで、アメリカ主導の資本主義経済のグローバル化が、政治や文化の領域にまでそのインパクトを拡大し、いたるところで加速されていった。すなわち、19世紀以来の国民国家のあり方とその存在意義が根底から問われはじめたわけである。このように、歴史家をとりまく知的磁場が根本的に変容するなかで、「集合的記憶を表象する場」の分析をとおして「フランス的国民感情のあり方を探る」というノラの企画が、微妙に揺れ動かないはずはなかった。96年の英語版序論では、シリーズ当初の問題意識の回顧からはじまって、オリジナル版と英語版の構成および両者の連関の説明におよび、さらにこの間のコンセプトの「揺らぎ」についても言及している。つまり、「『記憶の場』から『記憶の領域』へ」は文字どおり、この12年間に進行した世界構造の転換、知的磁場の変容をふまえた再総括文書であった。われわれの日本語版が、この文献をあえて原著総序より前に置いたのは、こうした認識にもとづいている。すなわち、日本語訳によって『記憶の場』を無批判に顕彰するのではなく、まさにそれ自体を相対化し、史学史的分析対象にすることこそが、原著の意図にかなうものと考える。英語版序文を冒頭に置いたのはそのためであり、各論文ごとに初出年を記し、訳者による文献解題を付したのも同様の試みである。第1巻の上梓からすでに18年経っており、最も新しい巻でも10年たっている今日、各論文もまた、それぞれの対象にかんする「記憶の場」に他ならないからだ。

(3) 方法としての『記憶の場』

 ここで、この膨大な作品群を読み解くうえで重要と思われる点をいくつか指摘しておこう。先にあげた史学史的方法は、ノラ自身がいうように本シリーズの基本的な視点のひとつである。ただし、ここでの史学史は、歴史観や歴史方法論の変遷を時代順にたどるといった古典的なそれではない。かりに、公文書実証主義の確立をもって近代史学の成立と考えるならば、ノラの問題意識は、むしろその呪縛からの解放にある。彼は「歴史学はいまや認識論的段階に突入した。」という。そこでは、「テクスト(史料)は現実を反映するものではない」と主張する「言語論的転回」論者たちを直接名指してはいないが、史料実証主義が陥っている認識論的隘路からの脱出を、史学史的スタイルに求めたのではないかと思われる。

 原著総目次にも明らかなように、『記憶の場』に収められた論文の多くは、だれにも馴染みのテーマを扱っている。少なくともフランス人にとってはそうである。しかも一見したところ特別な方法論をもたず、ある意味では実証史学以前の物語的な(エッセイ風の)叙述スタイルをとっている。「身近な史料ともっとも洗練されていない手法。まるで、一昨日の歴史学に戻ったかのようである。」とノラ自身も形容している。だが彼は、これを「きわめて伝統的でありながら、なおかつ、まったく新しいタイプの歴史」「徹頭徹尾クリティカルな歴史学」だと主張する。彼のいう新しいスタイルとは、「原因より結果」の分析に重きを置く歴史学である。つまり、ある事件がなぜ起こったか、いかに展開されたか、ということよりも、その記憶の行方、シンボル化された再利用、神話化された「読み替え(アプロプリアシオン)」のほうに注目する歴史学である。あるいは、伝統それ自体よりも、伝統がどんな風に創出され、いかに変容し、あるいは死滅するか、そのようなあり方に関心を寄せる歴史学だと言えよう。たとえば、フランス革命それ自体よりも、その百周年祭や二百周年祭に注目する、あるいは後世の作家や歴史家がフランス革命をどのように叙述し、評価したか、その変遷を分析する。そのような意味での史学史的スタイルである。

 つまるところ、記憶の歴史学とは、復元でも再構成でもなく「再記憶化」なのである。それも「過去の想起」としての記憶ではなく「現在のなかにある過去」の「総体的な構造としての記憶」だという。それを認識論的に表現すれば、「記憶の場は、従来のいかなる歴史学の対象とも異なり、現実のなかに指示対象をもたない。むしろ、記憶の場はそれ自体が自身の指示対象」となる。いわば、二重の表象行為(ルプレザンタシオン)そのものなのだ。この視点に立てば、歴史家自身、あるいは歴史学というジャンル自身が、一種の「記憶の場」だとみなされる。認識論的時代における史学史的方法とは、さしあたりこのように要約されよう。

(4) 文化=社会史としての『記憶の場』

 このような方法意識は、史料にたいする認識に根本的な修正を迫ることになる。たとえば、史料実証主義の寵児とされてきた手稿史料から、その特権性を剥ぎ取り、従来なら二次史料ないしそれ以下の「状況証拠」とされてきたものと平等に扱うことが可能になる。主題次第では、むしろ地位は逆転する。すくなくとも手稿をピラミッドの頂点とした史料のヒエラルヒーは解体とまではいかなくとも、その傾斜はなだらかになり、歴史研究にまつわる閉鎖的・特権的性格は大幅に薄まるはずである。日記、回想録、小説、事典などの活字史料はもちろん、聞き取り調査の口承史料(オーラル・ヒストリー)、歌謡、写真、絵画、映画などのAV史料、さらには彫像、記念碑、建造物、街路名にいたるまで、真正面から言説分析の対象となる。しかも、より重要なのは、それがたんなる史料レヴェルの拡大にとどまらず、広義の社会史の可能性を飛躍的に拡大したことであろう。こう言ったほうがよければ、政治をも「文化」ととらえる文化=社会史にいっそうの屈伸性をあたえたのである。

 ノラは、プロジェクトの初発のターゲットは、エルネスト・ラヴィスらが編集した『フランス史』全27巻(1901―22年)に代表される伝統的国民史学だという。第三共和政的ナショナル・ヒストリーの統一性を解体し、その「時系列的で目的論的な連続性」を断ち切ろうとする試みだったと。しかし、ラヴィス的政治史はアナール学派草創期のターゲットであり、主たる打倒対象としてはプリミティヴにすぎる。真の狙いは、むしろアナール派自身、穏やかに言えば、その自己革新にあったと考えられる。1960年代から70年代のアナール派のアキレス腱は、「政治的なもの、ナショナルなもの、同時代的なもの」の分析であった。

 周知のように、戦後のフランス史学界では、政治的事件よりも社会経済的なトレンドが重視され、人口統計や物価動向など中・長期を見通した数量経済史的方法が歴史学に導入されるようになった。とりわけアナール第二世代を率いたブローデルは、地理的環境や経済循環など「動かざるもの(長期持続)」、「構造的連関(中期持続)」を重視して社会科学としての歴史学を推し進めた。ブローデルが軽視した「束の間の泡沫」のような事件史中心のナショナル・ヒストリーは後景にしりぞけられた。ノラは、それを「事件史にたいする十字軍」と形容している。たしかに、一連の政治史批判によって歴史学はより「科学的」となり、その対象領域も社会史を中心とする学際的領域へと飛躍的に拡大した。たとえば、民衆の宗教的心性の推移を論じる際も、遺言書や葬礼などに関する数量史的分析が導入される。だが、この科学主義的手法では集合心性の量的分析は可能になっても、質的な分析にはならない。同様に、同時代史や事件史の軽視は、人びとによって「生きられた歴史的経験と、歴史家の知的営みとのギャップ」をもたらす、とノラは言う。

 このシリーズの出発点は、1978年から81年にかけてノラが社会科学高等研究院で主宰したゼミナールだが、折からアナール派内部にも政治史への回帰、ナラティヴ(物語)の再評価という気運が起こりつつあった。おそらく、ノラはこうした流れをうけて、アナールにおける政治史の復権を、伝統史学でも科学主義でもない、もうひとつの集合心性史的手法でもって果たそうとしたのだと思われる。すなわち、国民感情をさまざまに表象する「記憶の文化=社会史」なるものは、伝統的な国民史(ナショナル・ヒストリー)への回帰でもなければ、かつてのアナールにみられた数量史的心性史でもない。それは、言説分析的心性史もしくは史学史的集合心性史とでもいうべき、野心的な試みであったと考える。

(5)『記憶の場』と日本における「国民国家論」

 このような「記憶」ないしコメモラシオンの言説分析は、21世紀を迎えてさらに勢いを増しているかにみえる。フランスや欧米だけでなく、日本のマス・メディアや学術ジャーナリズムでも、今や流行の域を越えて定着しつつある。ただし、日本での「記憶」概念の理解は、1990年代における「戦争の記憶」論と「国民国家(批判)論」の隆盛を抜きには語れない。これらはいずれも、ホブズボームの「伝統の創造」論やアンダーソンの「想像の共同体」論を高く評価し、近代国民国家の虚構性を抉りだそうとする立場である。これらの議論は、国民意識や国家の物語につながるものへの根底的懐疑から出発している。レトリックとしての「記憶」は、戦争にたいする国民の加担や、「非国民」あるいはマイノリティにたいする国家の抑圧を鮮明にするうえでも、きわめて有効な武器となる。これにアメリカやオーストラリアで盛んな「パブリック・メモリー」論などが加わり、たがいに増幅し合って「歴史と記憶」をめぐる議論が21世紀に入っても日本の論壇をにぎわし続けている。このような思想状況は、第二次大戦50周年を契機とし、以後も歴史教科書、国旗・国歌法、靖国神社公式参拝問題など、コメモラシオンのあり方をめぐる論争が間断なく生起している政治状況からして当然である。ただ、こうした「記憶の歴史学」はあまりにも政治的、倫理的になり、ときとして情緒的になっているようにさえ思われる。それらの一部が、批判理論としての鋭さから、「記憶の政治学」あるいは「記憶の倫理学」とよばれているのももっともである。ただ、それだけでは「記憶の歴史学」は反国家主義の情緒的なレトリック、たんなる枕詞に終わってしまわないか、歴史家としてはいささか危惧されよう。

(6) 現在史あるいは、究極の文化=社会史

 こうした日本の論壇状況において、ノラと『記憶の場』はどのように受けとめられるだろうか。これまでにも、すでに、近代社会史研究会や東京外語大でのシンポジウムなどの際、一部の論客から「多元的ナショナル・ヒストリーに回収されてしまう」とか「あらたなフランス国民史を立ち上げようとするアナクロニズムにすぎない」という拒絶反応も見られた。ノラのプロジェクトは、国民国家批判を前面に押しだすわけでもなく、いわゆる立場性をあらわにしていないからだ。ただ、フランスでは左翼知識人としての彼のイデオロギー的立場については周知のことがらに属している。たとえば、1931年生まれのノラも「戦争の記憶」と無縁の人ではない。それどころかすでに見たとおり、彼はユダヤ系フランス人であり、ヴィシー政権下では絶滅収容所送りを辛うじて免れ、十歳過ぎたばかりで対独レジスタンス「マキ」と行動をともにするという「重い記憶」の持ち主であった。国家権力の犯罪性はもちろん、ナショナルな市民感情がときにのぞかせる「おぞましさ」については文字どおり骨身に沁みている人物である。「非国民」のレッテルを貼られ、抹殺されそうになったマイノリティ体験をもつノラが、「フランス的国民意識」を表象する「記憶の在りか」を歴史的に検証するというからには、たんなる批判理論のレトリックではありえない。彼が、随所で「記憶の民、ユダヤ人」に言及するとき、その意味は深刻である。しかし、ノラは自らの個人的体験としては語らない。歴史家としての彼は、近代国民国家への幻想からはほど遠いが、むしろそれゆえに、対象との距離感覚を保たねばならなかったのである。「記憶の場」の文化=社会史は、たしかに「伝統の創造」論をはじめとする国民国家論と一部で重なっているが、微妙にすれちがってもいる。誤解を恐れずに言えば、ノラにとっては、ホブズボームやアンダーソンの説は議論の前提ではあっても、結論ではなかった。そうすることによって彼は、同時代(現在)を文化=社会史の分析対象とすることにいくらか成功した。「現在」という時代をイデオロギー的に断罪するのみでなく、現在のなかにある過去を、時系列をはずして縦横に読み替えることをとおして「現在史」を構築する。こうして彼は、社会史の領野を、アナール派のアキレス腱であった近現代史にまで拡大しえた。いわば、これまで外交史や国際政治学の独壇場とみられた現代史の領域に、古代史から近代史までを総動員する史学史的言説分析によって、新しい文化=社会史のスタイルを提起したのである。

 さて、本報告のタイトル「究極のナショナル・ヒストリー?」の疑問符にたいする答えは、すでに明らかであろう。結果的には、多元的ナショナル・ヒストリーの再構成に終わることもありうるだろう。とはいえ、方法的に見るかぎりそれだけには留まりえない。ここでは、むしろ究極の社会史への試みなのだといっておきたい。

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