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国際シンポジウム「歴史学の現在を問う」

永井報告「万機親裁体制の成立 ―明治天皇はいつから近代の天皇となったのか―」へのコメント

本研究科助教授 日本史学  吉川真司

 私は日本前近代史、とりわけ古代史からのコメントを行ないたいと思う。

 永井報告は、原史料に即して政務決裁のシステムの変化を具体的に追求し、そこから近代天皇の成立を論じた、注目すべき研究である。実は日本史においては、近年、古代史でもこのような研究が試みられてきた。天皇・太政官・摂政関白・太上天皇などが関わった政務のかたちがリアルに復原され、法制史料や古文書などからはわからなかった、国家意志決定のシステムとその特質が明らかにされつつある。
 私もこうした研究を行なってきたが、その経験・知見をもって永井報告を聞いたとき、最も印象的であったのは次の点である。すなわち、近代天皇の万機親裁システムは、確かに専制君主といってよい古代天皇、あるいはそこから展開していった前近代天皇の決裁システム一般と、大きく異なったものであったことである。部分的に律令が参考にされながらも、全く新しい天皇のあり方が形作られたように思われる。
 以下、補足の域を出ないが、論点を三つほど示して、このことをやや具体的に述べたいと思う。

 第一に、天皇の決裁そのもののあり方である。永井報告によれば、決裁システムは明治十年前後に変化し、天皇の裁可は印を捺すことによって示されるようになったという。これは報告でも指摘されたように、古代ないし前近代の天皇においては全く考えられないことであった。古代の天皇の意向は重要事項についてのみ、しかも口頭で示されるのが基本だったからである。
 律令体制における天皇は、当初は大納言や少納言によって読み上げられた文書に対して口頭で意向を示した。また、八世紀中葉頃に「官奏」という政務が成立するが、それも大臣から奏上された文書そのものを天皇が閲読し、口頭で決裁を行なうものであった。さらに平安時代以降には、職事・蔵人による伝奏が一般化するが、その場合も口頭決裁という原則は変わらなかった。天皇の言葉は、例えば「ヨシ」などという簡単なものだったと思われ(単にうなずくだけだったのかも知れない)、それは奏請した側が文字にして記録する。こうした決裁記録が「奏報」とか「宣旨」とかと呼ばれるものであった。要するに、特別な場合を除けば、天皇がみずから紙の上に意向を書き記すことはなかったのである。
 実はこうしたことは太上天皇でも、摂政関白でも、さらには太政官でも同じであった。上級者の決裁を下級の書記官が書きとめること、それは古代における決裁システムの原則であり、前近代の朝廷・公家にずっと受けつがれたものだったのである。「高貴な人物ほど字を書かないものだ」という古代的な考え方を、私はそこに読みとりたいと思う。
 永井報告によれば、印を用いた天皇決裁が確立するまでは、口頭による決裁が行なわれていたとされる。確かにそこには、まだ前近代の文書規範から脱皮しきっていない天皇の姿を見ることができる。裁可印による決裁を始めたことは、日本の天皇にとって、確かに画期的な変化であったと言わねばならない。またそれとともに、大臣や参議が捺印して意向を示したことも、朝廷・公家の文書規範という点から見れば、やはり大きな変化であった。「口頭決裁から捺印へ」という変化は、まずは太政官から始まって天皇に及んだ、と評価することもできそうであるが、いかがであろうか。

 第二に、天皇の裁可の印について述べたい。永井報告によれば、天皇の裁可印はまず「裁」という印文にはじまり、そののち「可」「聞」「覧」が用いられるようになった。これらの印文はなかなか興味深いものである。
 印文の由来をたずねてみると、「可」と「聞」は律令の天皇文書に源がある。公式令詔書式、すなわち天皇の意志を確定し、布告する文書様式では、施行を許可することを示すため、末尾に天皇が「可」字を書いた(御画可)。また公式令論奏式、すなわち太政官が天皇に上奏する際の最も重大な文書様式では、天皇が「聞」字をみずから末尾に書き込んで、裁許の意志を表わしたのである(御画聞)。この詔書と論奏は、中国(唐)の文書様式を直輸入したものであり、やがてきわめて限定された儀式的用途にしか使われなくなるのだが、明治の裁可印はこうした制度を念頭に考案されたものであった。つまり、古代の公式令が明らかに参照されているのである。
 しかし、律令の御画可・御画聞と明治の「可」印・「聞」印には、大きな違いがある。まず律令では天皇が異例にもみずから筆を執るのに対し、明治のものは印である。また律令ではそれらが施行文書の原本に記されるのに対し、明治の印は決裁文書・決裁記録に捺されるものであった。さらに「裁」印や「覧」印には、公式令に対応するものがない。すなわち公式令が参考にされつつも、内実は全く異なっていたと言わねばならない。そして、明治政府の施行文書もまた、公式令の香りはするものの、様式は完全に異質であった。これは文書規範における前近代の継承のあり方を、よく示すものと言えるだろう。

 第三に、これに関わることであるが、決裁文書と施行文書の関係である。
 平安時代においては、天皇の口頭の仰せを書きとめた決裁記録をベースにして、太政官符や宣旨といった施行文書が作成されていた。この場合、口頭命令がすべての基礎にあるから、施行文書においても、「奉勅」の「宣」であることが示されることになる。
 大局的に見れば、前近代日本の文書には、「奉書」という太い流れがある。上級者の意向を下級者が取り次ぐという形式をもつもので、すでに奈良時代には存在し、やがて書状形式の御教書、綸旨、院宣、女房奉書などが発達していく。中世・近世の武家政権でも、奉行人奉書や老中奉書といった奉書形式の文書がよく用いられていた。このような「奉書の文化」というものは、先に述べた口頭決裁と表裏一体の関係にあったと思われる。上級者の仰せを聞いた下級者がそれを記録し、さらに奉書形式の文書として発給したというわけである。
 このように考えられるとすれば、近代になって新たな決裁文書・決裁記録が開発されることにより、奉書形式の天皇文書は衰えていくことが予想される。はたして明治の公文書をみると、「奉書の文化」は徐々に影が薄くなっていくようである。確かに「奉勅」形式の勅書や太政官布告があったり、位記の大臣署名部分に「奉」「宣」と書かれたりする例はある。また宮内大臣が天皇の意向を奉じて「御沙汰書」を出すこともあった。しかし奉書には、もはや昔日の面影はなく、その意義・比重はずっと低下しているのではなかろうか。さらに天皇がみずからサインするような文書様式が現われることは、近代文書における「奉書の文化」の衰退をよく示しているように思われる。
 このように古文書学的な関心からすれば、天皇の決裁システムの変化が、文書様式の総体的変化とどのように連動していたのかは、たいそう興味深い問題だと思われる。決裁文書と施行文書は時期的にもパラレルに変容するのだろうか。ぜひ知りたく思った。

 以上、文字文化・古文書学といった、きわめて限られた関心からコメントを行なった。誤解も多いことであろうし、統帥権独立という権力論的に重要な問題については何ら言及できなかったことを遺憾とする。しかし、近代天皇の政治行為が前近代の政務・文書システムの否定と換骨奪胎の上になされたのであれば、やはり近代と前近代を比較するのは無意味でないだろう。伝統的な文字文化がスクラップにされ、リサイクルされる。律令体制とともに誕生した文書の体系、その終焉は明治の初めにあり、その様相が日本の前近代と近代の断絶性と連続性の一端を照らし出しているように感じられた。
 そしてその際、最も知りたいことは、明治の新しい決裁システムがどこから生まれたかということである。諸外国の政治制度を参照したものなのか、日本近世に新しいシステムが準備されつつあったのか、はたまたゼロから新しいものが創出されたのか。専門家には自明のことなのかも知れないが、この素朴な疑問を最後に付け加えて、つたないコメントを終えたい。

[→報告3]