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国際シンポジウム「歴史学の現在を問う」

「万機親裁体制の成立 ―明治天皇はいつから近代の天皇となったのか―」

本研究科教授 現代史学  永井 和

はじめに

 明治維新の際に、新たに成立した政府・国家の最も重要な政治理念として「天皇の万機親裁」なるものが定立され、それ以降約80年にわたり、日本の統治制度はこの政治理念により大きく拘束されつづけた。しかし、この政治理念の定立とその現実化との間には少なからぬタイムラグがあった。なぜなら、天皇が日常的に万機を親裁する体制ができあがるのは、明治維新から10年たった西南戦争後のことだったからである。国立公文書館に所蔵されている明治期の太政官文書を用いて、このことを実証するのがこの報告の目的である。

 「万機親裁体制」とは「国政上の重要事項すべてについて天皇が最終的決定権をもち、天皇の決裁によってはじめて国家意思が最終的に確定される、国家意思決定システムである」と定義できるが、それ自体は抽象的な存在であって、目に見えるものではない。ただ、その意思決定プロセスには必ず文書が介在するので、その流れを追うことによって、抽象的な意思決定プロセスを目に見えるかたちで理解することが可能になる。

 国立公文書館に所蔵されている天皇決裁文書をもとに(その一部は、http://www.archives.go.jp/05_1.htmlにおいて掲示されている)、「万機親裁体制」の国家意思決定プロセスを図式化すれば次のようになる。

  1. 各省大臣等から出された案件を、内閣総理大臣が天皇に奏請してその裁可を求める。天皇は奏請に裁可を下し、それを下付する。天皇の決裁を得た総理大臣はその案件を執行するか、または執行のために各省大臣等に移牒する。
  2. このプロセスには一定の文書の流れが付随しており、天皇の決裁は、内閣総理大臣からの奏請に天皇の裁可印を捺印した奏請・裁可書なる文書の存在によって示される。
  3. 天皇の裁可を要する事項はかなりの広範囲にわたっていた(たとえば、森鴎外の婚姻や夏目漱石の第五高等学校教授の任官は天皇の裁可をうけている)。

 以上のことから、「万機親裁体制」がいつ成立したかを知るには、このような国家意思決定のしくみがいつ成立したのかをさぐればよい、もっと端的に言えば、天皇の裁可印を有する奏請・裁可書がいつ登場したのかがわかればよい、ということになろう。そこで、国立公文書館に所蔵されている明治期の太政官文書を検索し、天皇の決裁文書がいつ登場したのかを調査してみた。実際に調査したのは「諸官進退」なる公文書群である。これは明治4年7月から明治12年12月までの官吏の任免などの人事案件を年月日順に編集したものである。

1. 太政官(正院)の決裁文書式:第1期(1871年8月から1873年5月まで)

 太政官正院とは、太政大臣・左大臣・右大臣と参議(すなわち三職)からなる最高政治組織で現在の内閣に該当する。正院の決裁書類の様式変化については、すでに先行研究があり(田口慶吉「近代太政官文書の様式について」『北の丸』19、1987年と中野目徹「明治十二年の太政官官制改革」『日本歴史』586、1997年)、太政官決裁文書の様式を四段階にわける時期区分はそれらの先行研究にしたがっている。

 この時期の正院決裁文書は、史料1のような様式をしている。これは明治4年9月29付の海軍少佐兼兵学大助教田中義門を海軍少佐兼兵学少教授に任ずる人事だが、兵部省からの上申書の欄外の裁字印(朱印)が決裁の標である。問題はこの裁字印がいったい誰の決裁印なのかだが、先行研究は太政官正院の決裁印とするものと、天皇の決裁印とするものとに分かれる。後者が正しければ、史料1は天皇の裁可書となり、すでにこの段階で万機親裁が成立していたとの結論になる。両説の詳しい検討は省略して、結論だけを言えば、この裁字印は正院の決裁を示すものと解釈すべきである。明治4年8月に定められた正院の内規「正院処務順序」(史料2)に、「三職決裁了リ裁印ヲ附シ外史ニ附ス」とあるのが、その根拠となる。

 この事実は、太政官の意思決定において天皇の親裁の形跡を文書上に見いだすことができない、すなわち「万機親裁」がいまだ成立していないことを示す。

2. 太政官(正院)の決裁文書式:第2期(1873年5月から1877年9月まで)

 この時期には正院の決裁文書式は史料3のように変化する。これは、1873年5月8日に議決された、西郷参議を陸軍大将兼参議に任ずる決裁書類である。罫紙の頭に大臣と参議の押印欄があり、三条太政大臣と五参議の捺印がはっきりと認められる。天皇の裁可を示す表徴は存在しない。このような様式の文書は、閣議書あるいは大臣・参議回議書と呼ばれており、第2期にはこの閣議書・回議書が正院の決裁を表す文書となる。この変化は1873年5月2日の太政官官制の改定を反映したものであり、新しい「正院事務章程」(史料4)において、参議(内閣議官)の議判権が明確にされたことを反映したものにほかならない。

 しかし他方において、この正院事務章程は、正院の決裁ののちに天皇が御批允裁をおこなうこと、すなわち天皇の裁可が最後になされることを手続きとして想定していた。しかも、その御批允裁は、文書化されること、つまり目に見える表徴として表示されることになっていた。実際、公布された「正院事務章程」の末尾には天皇の「御批」とそれを受けたことを示す太政大臣の奉勅布告文がみられる。さらに、「御批国法允裁」(史料5)と題する御批の記録の雛形も定められていた。

 1873年5月の太政官官制の改定には、正院の決裁と天皇の決裁を分離し、国家意思決定プロセスの最終項に天皇の文書決裁をおくことで、「万機親裁」を実現する意図が内包されていた。ところが、実際には文書による御批允裁の手続きは実施されないままに終わった。この時期の正院決裁文書全体にわたって御批允裁のあったことを示す標はどこにも見いだせない。文書学的見地からすれば、第2期においても「万機親裁」は実現されていないのである。

 なぜ、その意図が成就されずに終わったのか。はなはだ興味深い問題だが、解答を与えるのは容易ではない。ただひとつ言えるのは、少なくとも正院側は内規まで定めていたのだから、挫折の原因が求められるとすれば、それは正院の側にではなくて、天皇の側でなければならないということである。近代的な君主観からすれば、しごく当然と思われる文書に決裁印をおすという行為であっても、前近代的な伝統的神聖天皇観にてらせば、天皇たるべき人がなすべきではないと、忌避された可能性が高い。

 なお、「万機親裁」の未成立といっても、それはあくまでも、国家意思決定プロセスの中に天皇の裁可が独立の最終項として組み込まれていないということであって、明治天皇が国政上において現実に何ら裁可を下していなかったことを意味するものではない。史料から判るのは、正院の決裁文書に天皇の決裁印がないとの事実であって、天皇の裁可を求める上奏が太政大臣によって口頭でなされたり、天皇臨御のもとで御前評議がおこなわれ、そこで正院の議決と天皇の承認が同時になされることまでが否定されたわけではない。いや、この時期には天皇の裁可は、もっぱらそのような方法で与えられていたと考えられる。しかしそれでも、正院が日常的に決裁を下していた重要案件すべてが必ず奏聞されたとは想定しがたく、最重要事項に限られていたのではないかと思われる。また、御前評議で与えられる天皇の同時承認は、天皇の正院との一体化を示すもので、天皇が独立した最終項として機能しているとは言えない。

3. 第2期における天皇決裁文書:断刑伺と西南戦争中の天皇裁可文書

 いっぽうで、ごくわずかだが、天皇が決裁をおこなったことを示す文書もじつは存在している。その初例が史料6である。これは1874年2月28日付の断刑伺(死刑判決の確定を天皇に求めた太政大臣の奏請書)であり、その頭部欄外に裁字印が押されている。太政大臣が「奉仰御允裁」と奏請しているのだから、この裁字印はまぎれもなく天皇の印である。なお、この裁字印と第1期の裁字印は文字は同じだが、別印である。両者を拡大してみれば(史料7)、ちがいは一目瞭然である。断刑伺は、通常の正院の決裁文書が天皇の決裁を受けていないことを証明している。なぜなら、膨大な太政官文書群にあって、これと同じ裁可印をもつものは、ごく限られた例外にすぎないからである。

 このように、第2期には限定的な分野で天皇の文書決裁がはじまったのだが、翌1875年に大審院が設置され、司法権が裁判所に委任されるにおよんで断刑伺は消滅する。天皇の裁可書が再び登場するのは西南戦争中になってからで、その最初の例が1877年5月22日付七等判事古荘嘉門に九州出張を命じる決定である(史料8)。通常の閣議書の欄外に裁字印が押されているが、その大きさと字形が断刑伺の天皇印と同じであるので、これも天皇印と断定できる。明治天皇が西南戦争のために京都に滞在していた時のものである。

4. 太政官(内閣)の決裁文書式:第3期(1877年9月から1879年4月まで)

 1877年9月初めに太政官の決裁文書の様式はもう一度大きく変化する。史料9が新しい様式のもっとも早い例で、1877年9月6日決裁の、福崎季連を霧島神宮大宮司に任じる決定である。閣議書に大臣・参議が押印し(閣議議決)、さらに天皇が裁可印(可字印または聞字印)を加判して、国家意思が確定されたことが示されている。閣議書が同時に裁可書でもあるのは西南戦争中の天皇決裁文書と同じだが、天皇の裁可印が文書の欄外ではなくて、最初から区画された押印欄に捺印されている点にちがいがある。また第3期になると、太政官内閣の重要決裁文書のほぼすべてに天皇の裁可印が押されるようになる。

 第2期末期の西南戦争中に現れた天皇の文書決裁が恒常化し、維新後10年を経てようやく「万機親裁」理念にふさわしい文書決裁様式が出現したのであった。この新たな様式を法的に規定したのが、1877年9月7日付で大臣・参議が連署上奏し、天皇の裁可を受けた「内閣参朝公文奏上程式」である(史料10)。そこに「親裁ノ実ヲ挙ケ」と記されていることからわかるように、「日々内閣に臨御し、万機を総覧し、親裁する天皇」にふさわしい文書決裁システムとしてこの公文奏上程式が定められたのだった。文書学的見地からすれば、この時すなわち1877年9月初旬をもってようやく「万機親裁体制」が軌道にのったと言うことができる。

5. 帷幄上奏書の登場

 第3期のもうひとつの特徴は、内閣の上奏によらない天皇の裁可書が登場する点にある。史料11がその初例で、1879年1月6日付の野津道貫陸軍少将の近衛参謀長御用取扱被免の人事である。結文に「左之通奉允裁候也」とあるように、この文書は裁可を求める奏請書の形式をとっている。奏請者は陸軍卿と参謀本部長の二人であり、いずれも太政官内閣のメンバーではない。この奏請書は太政大臣を経由せずに参謀本部長から天皇に直接上奏され、天皇の裁可をうけたあと、その執行(人事発令)のために太政大臣に下付されたのだった。このような軍部から直接に出される奏請書を帷幄上奏書とよぶ。帷幄上奏書が登場してくるところに、第3期のもうひとつの特徴がみられる。

 それまでは、陸軍の将官に職務を課すには、陸軍卿が太政大臣に上申し、内閣議決を経て天皇の裁可を受けていた。裁可を仰ぐ上奏権は内閣(太政大臣)にあったのだが、これ以降は天皇とその帷幄によって内閣とは独立して決定されることになったわけである。これが人事面からみた統帥権独立のはじまりである。

 西南戦争後に登場した「万機を親裁する」天皇は、その一年数ヶ月後には、太政大臣と内閣の輔弼によらず、もっぱら参謀本部長と陸軍卿の輔翼によって軍務に決裁を与える存在にまで進化した。第3期に天皇と太政大臣・内閣の関係は二度大きく変化した。まず、1877年9月からはじまった「万機親裁」により、太政大臣と天皇の一体・不可分性が清算され、太政大臣の輔弼を受けつつも、国家意思確定の最終項として自らを自立させた。さらに1878年末から帷幄上奏事項を親裁しはじめたことで、太政大臣の輔弼によらずに、内閣とは独立して統帥権を行使する大元帥となった。

 この両者はじつは連動している。内閣の決議と天皇の裁可とが分離し、天皇の決裁が国家意思確定の最後の項として独立していたからこそ、軍部からの奏請を天皇が内閣から独立して裁可することが可能だったのである。その前提に「万機親裁」の成立があってはじめて統帥権の独立が成り立ちうるのであり、それがなければ、そもそも統帥権の独立そのものがありえないのである。このことは、なぜ1878年末という時期に「統帥権の独立」が制度化されたのかという、昔からある問題に新たな解答を提供するであろう。

6. 太政官(内閣)の決裁文書式:第4期(1879年4月以降)

 第4期に太政官の決裁文書式はさらにもう一度変化する。史料13はその一例で、太政大臣三条実美を修史館総裁に任じる人事の決裁書類だが、天皇の裁可印は大臣・参議が連署した奏請書に押されている。左側にあるのが内閣の閣議書である。つまり、第3期では内閣の閣議書と天皇の裁可書が一枚の同じ文書だったが、第4期には閣議書と奏請書が実体としても分離し、天皇の裁可は奏請書に対して下されるようになった。右側の奏請・裁可書は最初にみた内閣総理大臣の奏請・裁可書の祖形にあたる。

 第4期の裁可文書の様式を定めた内規が、1879年4月7日「御前議事式及公文上奏式施行順序附公文回議手続」(史料14)である。この文書では、天皇の裁可を仰ぐための奏請書の書式四種類と内閣の議定の書式(回議書式)が規定されている。

 ここにいたって天皇決裁と内閣決裁の分離が確定し、天皇の太政官からの独立が文書様式の上でも、名実ともに確立されたと言ってよい。この決裁文書の様式は、「天皇親裁」を示す文書様式として以後定着し、1885年の内閣制移行後もそのまま踏襲され、その基本的骨格においては昭和期にまで及ぶ。この第4期様式の出現により、文書学的には「万機親裁体制」は確定し、制度的にかたまったとみなすことができる。

 同時に指摘しておかねばならないのは、この1879年の様式改定は、内閣からの奏請に限られ、帷幄上奏書には及ばなかったという事実である。これ以降、内閣からの奏請はすべて新しい書式にしたがうが、帷幄上奏書は第3期後半の様式をたもったままであった。そのことを示すのが史料15である。史料11とまったく同じ様式である点に留意されたい。さらに言えば、帷幄上奏書は、それが出現してから65年たった後になっても、ほとんど書式がかわらない。1943年の帷幄上奏書(史料16)と史料11とを比較すれば、納得されるであろう。

7. 万機親裁体制と多元的輔弼制の制度的確立

 以上述べたことから、「万機親裁体制」は西南戦争後の1877年9月の改革にはじまり、1879年4月の改革で確立したと結論できる。ここで確立された国家意思決定のシステムが、基本的な骨格においては第二次大戦の終わりまで継続するのである。

 1979年4月以降、天皇は文書様式からして明確に異なる二種類の奏請を受取り、そのいずれにも決裁を下す存在となる。たんに「万機親裁体制」が確立されただけではなくて、その「万機親裁体制」が内閣と軍部の双方の領域にまたがるものであったこと、言い換えれば、内閣と軍部の両方に屹立し、親裁する天皇というものが、同時に確立されたのであった。天皇に対して裁可を仰ぐ奏請権を持つ者を天皇の「輔弼者」と定義すると、「万機親裁体制」は、すでにそれが確立された時点で、内閣と軍部の二つの輔弼者をもつ二元的輔弼制をとっていた。さらに1885年末の内閣制度への移行により、天皇大権を三つの領野(国務大権・統帥大権・皇室大権)に分割して、それぞれに別個の輔弼者(内閣・統帥府・宮内省)をたてる多元的輔弼制が成立する。

 この多元的輔弼制をとる「万機親裁体制」こそが、近代天皇制の国家意思決定システムであり、明治憲法に規定される立憲君主制もこの土台のうえに築かれた。多元的輔弼制に立つ「万機親裁体制」を核にして、それを包むかたちで明治立憲君主制が成立したのである。

この報告の内容について、さらに詳しいことは、以下のURL http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/personal/chosaku.html にPDFファイルとして掲載されている、永井「太政官文書にみる天皇万機親裁の成立」『京都大学文学部研究紀要』41、2002 を参照されたい。

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