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国際シンポジウム「「自然という文化」の射程」

―討議―

 片柳 さまざまな問題が出ているわけですが、これをとりあえず整理するというのは暴力的なのかもしれませんけれども、自然と文化、あるいは自然と人間をめぐってのある原理的というか、理論的な問題に関するものと、そういう人間と自然、あるいは文化と自然という中から出てくる景観に関する、あるいは最後に岩城さんが出されましたような現代の社会あるいは現代の日本人が持っている自然ということに関する混乱というか、ハイブリッドというふうに言われたわけですけれども、そういった問題、一応、そういう二つに分けさせていただきます。

 そして、まず最初、いわば人間と自然をめぐるある原理的な問題に関しまして、ここではベルク先生、そして和辻哲郎の問題が中心になっていたと思われますけれども、そこではある意味で近代的な、自然を外にとらえる観方が批判されました。和辻が自分は自然でも環境でもなく風土を問題にするんだというふうに言ったときに、ある意味でその批判の対象になっていたのは近代的な、あるいは自然科学的なものの見方であり、こうした批判というものが和辻でも、ベルクさんでも根本にあるように思われます。ディスカッションの中に自然科学の方が入ってしかるべきだったと思いますけれども、その自然科学との関係ということ、その意味では和辻に対する批判の中でも、彼は自然を人間的に矮小化しているのではないかというふうな疑問も出てきます。その問題に関してベルクさんは通態的という形で、ある意味では自然の基盤、宇宙的な、あるいは惑星的な基盤というようなものを考えておられて、その問題を無視はできない。それを無視しようとするような考え方に対しては批判的であられたように思われます。それと和辻についても、和辻は自然科学の問題というようなものをどういうふうに受けとめようとしていたのかということについてもう一度お伺いしたいと思います。

 ベルクさんには、いわば三つの基盤、惑星的な基盤、それから生命の基盤、それから風土というものの関係をどういうふうに考えておられるのか、もう一度ご説明下さい。

 ベルク 風土論の立場は、一見して近代自然科学の立場とは違うように見えますけれども、我々は現代に生きていますので、我々の生き方をある程度規定している近代自然科学、近代自然科学をもとにしている近代技術などが我々の現実なのです。もちろんそれを無視するわけにはいきませんけれども、そういう意味では昔の伝統的な社会、伝統的な風土の状態とは違います。近代自然科学が存在していなかった時代と比較しますと明らかに違うのですけれども、すべての社会は世界観を通じて、自分、自分とは社会と文化と個人などを含めての自分という存在、宇宙の中の自分の位置を或る一定の仕方で意識してきたわけです。その位置を明らかにした宇宙観、または世界観は、伝統的には哲学においてはコスモスと言われています。秩序を持った世界観、あるいは秩序を持った宇宙性、それがちゃんと人間の位置を決めていたわけです。

 我々は近代科学の革命以来、それまでの宇宙性をだんだん失ってきたわけです。というのは、伝統的には「真」と「善」と「美」が、ある秩序を持った全体の面として存在しており、一体になっていたのですが、近代以降だんだん分離され、ばらばらになってきたのです。これをひき起こしたのは、やはり基本的に近代自然科学の現れです。近代自然科学の立場は原則として人間の価値観とは無関係に成立しているからです。

 今、価値のある、意味のある世界を持つためには、原則としては価値とは関係のない自然科学の立場をも考えねばならないので、これは矛盾するように見えますけれども、実は、例えば近代自然科学の一つの分野として生態学、エコロジーが現れたでしょう。生態学が20世紀後半になりますと、或る価値体系のようになってきました。あるいは或る価値体系を生んできました。その意味で、風土の立場と自然科学から生まれた新価値体系との間の関係は非常に微妙なのです。

 例えば科学としてではなくイデオロギーとしてのエコロジーの一つの現れとしてはホーリズム、全体論的原則というのがあるのですけれども、その中で人間はやはり生態系の一部にすぎないのですね。生態系の中にとらわれ、それまでの中心的な立場を完全に失っているわけです。逆に、例えば和辻哲郎が書きますように、風土論の基本的な問題は人間の主体性です。そのようなホーリズムの中の主体性は完全になくなっているはずです。これは矛盾しています。それは簡単な問題ではありませんが、よく考えてみれば私たちは、例えば或る風景は非常にきれい、深い感覚を起こしているとかいうようなことは、もとは風土論的な現実なんですけれども、同時にその基盤として自然科学の知識が働いています。我々は自然科学の教えをもって、それを昔より深く理解することができます。深く理解するためにこそ、それをもっと深く愛することができます。このように見ますと、やはり近代自然科学が我々にだんだん新しい風土論的な要素を与えてくれます。生産してくれます。というのは、風土とは、ただ伝統的なものではないのです。だんだん人間の歴史と一緒に上達していくことだと思います。

 片柳 そういう意味ではベルクさんの場合は、近代の自然科学のポジティブな面を受け入れた上で風土論というのは成り立つというように位置づけておられる。決して風土論というのが、ある意味では自然とのそれまでの一体感を、そのままもう一度取り戻そうというふうなことではないのだということであったと思いますけれども、藤田先生、和辻の場合はどうだったのでしょうか。

 藤田 先ほど『倫理学』という著作の中で和辻さんが自然界と一般に言われているのは、一定の態度をもってそれに接する人間に対して現出してくる世界だと、そういうふうに書いているということを申し上げましたが、そしてその際にいろんな観点から人間の態度といいますか、関心というものを取り上げて論じているわけでありますが、その一つが先ほど申し上げた生産、物をつくる、そしてそれは作物を育てて食べるとか、そういう営みに関わっているわけですけれども、そういう関心から見られた自然界というのは人為的な光景だということを申し上げました。それとともに情意といいますか、感情、そういうものをもって我々は自然に接している、そういう仕方で自然に接する人間にとっては、例えば鳥の飛翔が自分の心の躍動であったり、あるいは先ほどの音楽であったりするわけです。それから秋の夕暮れが寂しさの結晶になるという、そういう仕方で立ち現れてくるものとして自然界があるわけです。

 さらに、純粋に客観的な自然の世界というものを我々は考えるわけですけれども、それも、今言ったような人為的な相、つまり生産というような観点から、あるいは情意というような観点から現出してくる相という、そういうものを除き去って自然というものを把握しようという、ある意味で純粋な科学的な態度で自然に接しようとする人間に対して現出してくる世界であって、それもまた人工的な世界なのだというように科学的なる世界というものを和辻さんは見ていたと言えるのではないかと思います。

 片柳 パネラーの方で何かこの問題に関して。

 加藤 例えば内山さんの話を聞いていると、一体どうして自然破壊が発生し得るのかわからない。自然と文化というものが、そもそも根源的に同一なものであるとするならば、自然破壊はどうして起こるのか、全く理解できないような議論が、さっきから出ているけれども、私はおかしいんじゃないかと思うんですよ。

 例えば、ハンス・ヨナスには自然のヴァルネラビリティー(vulnerability)という言葉がありまして、自然そのものが破壊可能になったという言い方ですね。ハンス・ヨナスの場合には、人工物の規模が大きくなることによって、何らかの自然のバランスが壊されたんだということですけれども、例えば、先ほど内山さんが引用されたアリストテレスの言葉ですが、ベーコンの「自然は服従することによって征服される」という考えまでつながっていたと思うんですね。自然を征服する人間もまた自然の所産であり、征服される自然も人間の所産であり、自然を征服するとは言っても、それは自然自身の中に内在する要因が、技術という形で現れてくるということですね。

 さっきベルクさんがおっしゃったフランス人の言葉ですが、人間の手足の延長が技術であると。例えば、歯の延長が切断機であり、手の延長がハンマーであるというのは、1930年代に技術論を出したエルンスト・カップ―カップは同時に地理学者でもあったわけですが、彼の考えでもあったわけです。従って、技術は人間の手の延長であるという延長説という考え方は案外新しいんですね。けれども、その延長説から言うと、やっぱりベーコン流の、技術は幾ら頑張っても、人間という自然が持っている自然性の発露の一つの形態だという考え方が出てくるわけです。つまり、自然破壊がどうして起こるのか、説明できない。

 実際にはヴァルネラビリティーというのは、一体どこから起こってくるかといえば、例えば核エネルギーの開発というのは、今まで原子というものが持っていた、自然それ自身の平衡を自己回復するシステムそのものを破壊することによって、エネルギーを取り出しているわけですよね。それから、例えば遺伝子操作というのもそうですけれども、遺伝子の安定性というのは、自然はいろんな策略をもって遺伝子の安定性を保存しようとしているわけですね。例えば自然流産というようなシステムがあって、安定性、いいかえると遺存子の同一性を破壊するような危険が発生すると、自然流産でその危険を未然に防ぐという形で、いわば自己防衛システムを持っているわけです。このほかにもいろんな防衛システムがあります。例えば移植された臓器に対する生体の抵抗というのもその一つです。また細胞に対して異物が入ってきたときに、それを排除するシステムがあるという形でも、自然は自己同一性を保つシステムを持っているんですよ。

 そうした自己同一性を保つシステムを破壊する技術を開発したのは大体20世紀の後半なんですね。第二次大戦の終わりのころに核爆弾が開発されて、70年代に遺伝子操作の可能性が予言され、90年代になるとそれが実現されて、いろんな技術開発が行われている。だから、自然そのものが持っている自己同一性の回復機能を破壊するような技術が今開発されているというところに、一番大きな自然のヴァルネラビリティーの存立根拠があるわけです。

 そして、例えば和辻先生にしても誰にしても、恐らくそういう自然自身の破壊が発生することは全く予測していなくて、例えば『風土』という本の中にある自然というのは、すべて自然は同じ自然を反復するという反復自然観だったのではないでしょうか。だから、自然観そのものが大きく変わってきているというか、自然のヴァルネラビリティー、自然の破壊の可能性をどうやって説明するかという課題に答えるような形で自然と文化の諸問題を考えなければならないのではないか。

 内山 ですから、加藤先生がおっしゃったような問題を克服するためにもやっぱりそれは自然と人間との一体性の中で考え直すべきことであってね。自然と人間というもののサイクルを切り離す形で対置・対立させても、それは仕方がないだろうと。要するに、当座の対応でどう歯止めをかけようとしても、自然を変容するということは続くと思います。ですから、変容というものをどういう仕方で、あるべき仕方での変容というものにわずかながらでも近づけていくかということ。そのことを考えるときに、やっぱりむしろ自然と人間との一体性ということを、つまり一つの全体的な枠の中に一体化して考えることが重要なのではないかと思うのです。

 藤田 先ほど申し上げた自然界というのは一定の態度をもってそれに接する人間に対して現出してくる世界だという考え方は、すぐ自然破壊という問題にはつながりませんけれども、そういう考え方と自然破壊が現実に起こっているということは決して矛盾しているわけではないと思います。そこで一定の態度をもって我々が世界を見ているからこそ、まさにそういう力を持ち得るところまでいくのだということだと思います。つまり、自然を支配し得るものとして現れるという可能性を排除しているわけではないので、通態性という考え方と自然破壊が矛盾しているということではないと思うのです。

 ただ、和辻さんは、今言ったような自然の同一性を破壊するようなところまで人間が力を持ち得るのだというようには―この『風土』というのが出たのが昭和10年だったと思いますけれども―、その時点では考えていなかったと思うんです。

 それは、例えば日本で技術の問題を哲学者として論じた人としては戸坂潤と三木清の名前を挙げられると思いますけれども、彼らの技術論にしても非常にオプティミスティックなんですね。今言われたような問題のところまで視点が及んでいない。そういうことは技術ということを取り立てて論じた哲学者においてもそうであったわけで、和辻さんがそういう問題にまで視線が及ぶような思索をしていなかったのは、そういった人たちと同じような視点に立っていただけであって、自然破壊という問題を原理的に排除して考えていたわけではないと私は思いますけれども。

 ベルク 自然破壊のことなんですけれども、人間の現実をつくり出す世界性を西田哲学の中のように述語としてとらえる。例えば或る動物の種をどういうふうにとらえるかが基本的な問題です。そのとらえ方は述語的であって、実体そのものではないのです。例えば或る種を獲物として、食べるものとしてとらえるならば、それをどんどん狩猟でとって、その種がなくなるまで同じ論理が働くわけですね。獲物としてとらえているからです。でも、時代が変われば突然その述語化が変わることもできます。例えば保護しなければならない種としてとらえるようになるならば、やはり態度が変わってくるわけですね。ですから、同じ論理なんですけれども、その結果は大分変わることができます。

 20世紀までは人間は大体自然を利用する立場であったのですけれど、20世紀になりますと、やはり限界に達したから人間の態度が変わり始めたのです。その態度が変わったというのは、やはり人間の世界性が変わってきたということです。つまり自然のとらえ方、自然の述語化の仕方が変わってきたわけですけれども、まだ今までのダイナミズムが終わったわけではないのですね。非常に大きな問題ですから一遍に変わることはできません。

 片柳 私は、この趣旨説明の中でソフォクレスの「人間ほどデイノスなものはいない」という言葉を引きまして、それを「おそるべきもの」というふうに訳したのですけれども、加藤先生はヨナスの訳の中では「驚くべきもの」というふうに訳されていますけれども。

 加藤 そうでしたか。それは誤訳ですかね。

 片柳 誤訳ではないですが、ハイデガーはそこのところをウンハイムリッヒ、「無気味なもの」というふうに訳していますね。私は今の加藤先生の話との関連で言うと、自然のヴァルネラビリティーの問題というのは人間の在り方と深く関わっていると思います。和辻が参照したハイデガーのアウサー・ジッヒ・ザインという場合には、自分の外に、自然の中へという側面と同時に、自然からさえ出るということでもある、ハイデガーだったらそれは存在者から存在へ突き抜けるという意味を持っているわけです。ハイデガーにおいては、そういう超越性がある意味では自然をも出てしまうような、ある種の無気味さを持った問題として受けとめられていたのではないかと思います。和辻さんがそれを受けとめていなかったということなのでしょうか。

 藤田 「エクシステーレ」(ex-sistere)という言葉を和辻さんが言われるとき、われわれが常に間柄へ出ている、あるいは風土の中に出ているということで、風土を超えて出ているということは考えていなかったと思います。ただ、風土の中へ出ているというときに、和辻さんは人間と風土とのある意味で調和的な関係を考えていたと思いますけれども、それが実際には和辻さんの想像力を超えたものでありえたということはありうると思います。しかしそれは必ずしも風土へ出るということをさらに突き抜けることではないというように私は思います。

 片柳 岩城先生、この辺の、ある意味では自然というようなものもハイブリッドな形でしか受け取られていないということとの連関では何かありませんでしょうか。

 岩城 自然というのがハイブリッドなものとしてしか受け取られていないというよりも、私が言いたいのは、自然というものの中にはいろんなパースペクティブが入り込んでいて、自然の中身自体が極めてハイブリッドなものとして理解されなければならないのではないか。これはどの時代でも一緒だと言いたいわけです。

 さっき加藤先生がおっしゃっていた自己同一性システムというものが破壊されるような自然の状態の中でどういう問題が起こるかということですけれども、これもそう単純に思想文化系あるいは倫理学がそれに対して異を唱えるといって問題にするような問題ではなくて、やはりそこではこれまで進んできた一つの自然科学のいろいろな進歩みたいなものがあって、そういうものがまたそれを反省しつつ直していくという、過ちを犯しては直していくというやり方しかやっぱりないのではないか。それが非常にあらわに出てきているのが今の時代であって、我々自身の問題としてそういったある種の法則を求めては一つの世界を見つけていくわけですけれども、見つかった世界というのは必ず我々の経験の世界にフィードバックされて、経験の世界をこれまでずっとつくり変えてきているわけですね。ですから、そういうふうな問題が、ある意味では非常に切実な問題として我々の前に現れている。

 ただ、基本的に私が思うのは、だからといって自然科学をただ批判するというのではなくて、むしろ自然科学の英知を傾けた形でそれを回復していくという方向しか方法はないと思います。

 片柳 この問題に関しましてフロアのほうから何か意見でも質問でもありましたら。

 出口康夫(本研究科助教授、哲学) 今の岩城先生のお話を受けての質問です。そもそも自然に対する見方自体が多種多様で、また自然科学が提供している自然観もたくさんあって、どれが究極的に正しいかは、我々にはわからない。今は成功していると思える科学理論でも、22世紀にはひっくり返るかもしれない、というわけです。すると、自然に自己同一性があるという考え方も、そのような多様な自然観の一つでしかない、と捉えるべきではないでしょうか。そして、それとは別の自然観も自然科学の中にはある。例えば、岩城先生に見せていただいた、段ボールがペチャンとなってしまう写真。あれはどこかで見たことがあるなと思ったら、エントロピー増大を説明する教科書の中にああいうのがありました。そのエントロピー的な自然観というのもある。

 エントロピー増大というのは19世紀の熱力学・統計力学で出てきた考え方で、それによれば、自然は自己同一性を保てず、秩序が崩壊していく過程にある。そして、そのような考え方を下敷きにすれば、自然破壊というのも、技術が自然の過程に手を貸して、エントロピー増大のスピードを上げてやっているという見方すらできるわけです。すると、このような自然観は、内山先生が挙げられたギリシャ的自然観のあるものと、むしろ結びつきうると言えるのではないでしょうか。

 ただ、それでは熱力学・統計力学が完全かというと、決してそうではない。現在、統計力学で、水が凍る過程を説明する三次元のモデルすらまだできていないという、非常にプリミティブな状態ですから。すると、熱力学的自然観が、将来ひっくり返っちゃって、エントロピーの増大が、自然法則ではなくなるかもしれない。だから、それと結びついたギリシャ的自然観も、最終的に正しいとは、これまた言えない。しかし、少なくとも、内山先生が仰ったことが、現在、全く意味を持たないとは言えない、そういう気がいたしました。

 片柳 そういう中で、ともすれば我々は自然科学ということで一つの見方が決定的であるような形で受けとめて、エントロピーの法則でもいわばきめつけてしまう。それに対してベルク先生は、我々の世界が持っている知の暗がりとでも言うものに関してはどうでしょうか。不可知論的な暗さということを本の中では強調されていたと思いますけど、その辺についてはどうでしょうか。宇宙の起源に対する、あるいは自然科学というものに対する。

 ベルク 暗さといえば私は『老子』にあります玄牝のことが頭に浮かぶのですけれども。玄は暗いですね。谷のもとにあります暗い存在は、それを今の言葉で解釈すると自然でしょうが、その根源はやはり暗いです。これは自然科学の立場でも出発点は暗いです。原点以降の現象をとらえることはできますが、出発点そのものはとらえられないのです。物理学の方法をもってしてもとらえられないのです。それをとらえるためには、やはり自然科学とは別な考え方でなければならない。別の考え方とはやはり宗教ですね。宗教はやはり神秘という原則がありますが、それも暗さです。

 私が先ほど述べたS/Pですけれども、PはSの一面をとらえるわけです。でも、Sそのものをとらえないのです。SそのものをとらえたらPとSは同じになるわけです。でも、そうではないのです。S、つまり基盤であります自然の一面しか文化的にとらえられないということです。ほかは暗いですね。働きそのものを我々はとらえることはできません。なぜならば、それをとらえることこそ自然と文化の違いを前提としています。

 この点については、私はハイデガーの大地と世界の争いという考え方を参照しなければならないと思います。争いとは、世界が大地を開く過程においてこそ、つまり大地を世界化する過程においてこそ大地が自分の中に後退するわけです。それは当然です。というのは、世界が開く過程においては、先ほどの論理を参照すると、これは述語化です。つまり、とらえ方の結果としては我々人間の世界が開くわけですけれども、それはもちろん世界ではない、或る基盤を前提としております。その基盤は自然または大地です。その基盤は、基盤であるために世界化されてはいけない、あるいはできない。ですから、文化の働きによっていつも自然は解釈されていますけれども、その解釈こそ或るとらえ方しか生み出さないのです。それは自然の或る限られた面にすぎません。ですから、その解釈の働きからこそ自然の暗さをつくり続けるわけです。

 片柳 そういう意味では人間のある限界を考えれば、外という意味ではSがそこにあるということに対する或る種の不可知論的な開けのようなものを持たなければならないということだろうと思います。

 この問題はまだまだ続くのですけれども、時間がそうありませんので、もう一つの、自然あるいは風土というものが現実の社会の中で今問題になっている事柄、加藤先生が取り上げられた景観というふうな問題につきまして、この問題を取り上げて追究されている安彦一恵先生(滋賀大学、倫理学)、質問をして下さい。

 安彦 態度の相関項として見られた限りは、現実はすべて「風土」であると規定できるのではないか、と藤田さんは述べられたと思います。論理的に言うと、そうなるのだということだと思いますが、しかしベルクさんの場合は違っていると思います。或る限定が加えられていると思います。一種の生活保守主義みたいなものがあって、そのうえで「風土」が限定されている―あるいは、現実が「風土」へと限定されている―と思います。それに対して加藤さんが「景観」を問題にされる場合は、そうした限定が含まれていないと思います。ベルクさんの意味で「風土」と言うとして、そうした「風土性」とは関わりをもたない、いわば純粋な美といったもの―セザンヌは「農民はサン・ヴィクトワールを見たことがない」と言っています。例えばケネス・クラークの理解を重ねて言いますと、「農民」の生活性から独立したところに美的モティーフとしてのサン・ヴィクトワールが現出するということですが、そういう生活から独立した純粋なもの―も含めて「景観」の美が問題とされていると思います。

 そうだとすると、「景観」を論じる場合、「風土性」の回復・保全を言うだけでは特定の美しさを説いていることになります。そこで、そうではない美しさの追求との間で対立が生じることになります。私は「環境県」と言われている滋賀県から来ましたが、滋賀県では今、豊郷小学校の校舎をめぐって紛争が起こっています。これは、どうも公共事業の在り方が基本的な問題らしいのですが、「景観」としては専ら、「歴史的建造物云々」というかたちで、いわば「風土性」だけが全面に出てきています。そこで、加藤さんとベルクさんとで、少し論争してみて欲しいと思います。

 加藤 どういう論争しろと言われたのかよくわからない。藤田さん、今の安彦さんの発言をわかるように解説してもらえませんか。

 藤田 一番お聞きになりたいのは、歴史的な建造物みたいなものを我々は残すべきかどうかというときに、美的な観点というのが大きく作用しているということですか。

 安彦 美的な観点が作用している場合と作用していない場合との対立があるというのではなく、「風土性」をもった美と、一種純粋な美という二つの美が対立する場合もあるのではないか、ということです。ベルクさんだと、風土性をもった美としてだけ考えればいいのであって、その場合は景観問題はいわば単純に対処できるのですが、加藤さんの場合はそうはなっていないと思います。もう一つの美感も退けられてはいないと思います。岩城さんの場合は、―あるいは、むしろ反・風土的なものを主張されたと言った方がいいかもしれませんが―純粋な美を説かれたと思います。

 藤田 純粋美ということで、どういうことを考えておられますか。先ほど言ったので言えば、我々は一つの態度をもって自然に接するという、そういう態度抜きに美というものがあり得るという、そういうことですか。

 安彦 そう言ってもいいとは思います。いま「態度」を「関心」と言い換えることができるなら、ここでカントの「没関心性」という(純粋)美の規定を挙げることができます。そうですが、「美的関心」ということも可能であって、簡単に語ることはできないのですが、少しだけ厳密化しますと、「没・実践的関心」ということです。「関心」一般であるなら、およそすべての現実が「関心」相関的だとは言えると思いますが、ベルクさんが「風土」を言われるとき、「関心」をあくまで「実践的関心」として考えていると思います。そして、「実践的関心」の相関項としての現実にも美があるとして、そうした「実践的関心」の相関項としてベルクさんのいう「風土性」を伴った美があり、それとは別に、「没・実践的関心」の相関項として純粋な美があるのではないのかということです。

 加藤 和辻で言えば、純粋美というものは排除しては考えていないと思うのです。我々は生活に結びついたところで、例えば路傍に咲く花を美しいと日常思うという、そういうことから始めて、芸術家にしかつくり出せないような美まで含めて、人間の持ち得る美的関心といいますか、美的態度というふうに考えていると思いますので、和辻さんの風土論の中では、その両者の間に亀裂が生じてくるということはないと思うのですけれども。ただ、今問題にされようとした具体的な歴史的建造物を保存するとか、景観を保存するとか、そういう面では、そういうような亀裂の問題が生まれてくるのかもしれません。けれども、少なくとも私自身が言える和辻さんの風土論の枠内で言えば、両者の間に亀裂が起こってくるというふうには言えないのではないかと思います。

 片柳 安彦さんは、純粋な美と生活的な美、あるいは真と善と美というようなものが分かれてくるということ、これ自身が一つの近代的な分離の、あるいは分節の議論であると思いますが、それをもう一度考え直そうというように考えられないのでしょうか。それは安彦さんに対しての質問になるかもしれませんが。

 安彦 「近代性」を考え直そうということではなく、近代においてせっかく美が自立したのであるから、そうした自立的美をいわばそれとして楽しむということもあっていいのではないのか、とむしろ言いたいと思います。先程の豊郷小学校云々で言いますと、これはヴォーリズの作ですが、ここ京都でも東華菜館が彼の作です。これは、建設当時、否定する見解もあったそうですが、まさしく京都の「風土性」に対して異質なものであったからです。その当時においてこれが肯定的に評価されるとしたら、「風土性」とは独立した純粋な美という観点からでないとおそらく不可能であろうということです。

 こう言うと、「お前は環境問題に対して冷淡だ」と言われたりしかねませんが、むしろ逆です。少なくとも自然環境を問題とするならそうです。「風土性」とは換言すれば「自己了解的意味性」とでも言えますが、これを環境問題に持ち込んではならないと思います。自然そのものには意味はないのであって、そういう無意味の現実としてこそ、「科学」は自然をそうしたものとして問いますが、そうした科学的スタンスをもってこそ、その問題性にも適切に対処しえるからです。

 片柳 それに対してはベルクさんはどうですか。

 ベルク 私なりの風土論の立場で見ますと、純粋美はあり得ないのです。美は現実であって、必ず歴史的、風土的であります。けれども、そう言ってもいろんなスケール、あるいはレベルがあるわけです。例えば伝統的に続いたものの建て方などもありますし、あるいは近代建築によってつくられた新しい形などがありまして、もちろんそれらの歴史性が違うわけです。

 頭にしなければならないのは現代においての技術の強さです。それに近代的個人主義のだんだんの出現。これはやはり現代技術の手段をもって、それに個人主義をベースにした人間の態度が昔とは大分違ってきました。そういう状態においては、とても普通の人には理解し得ないものが突然現れることがあるわけですね。これは、或るごく一部の人は「ああきれいだ」ということを言えるでしょうけれども、ほかの人は「全然おかしい」と思うことも大分あるようになりました。昔はそれはなかったのですけど。

 ですから、どうすればいいかというと、やはりまず今の自然科学には矛盾しないように、つまり生態学とは矛盾しないように。それが第一の条件。あとは歴史の流れと余り違わないようにとか、それは歴史学の方法をもって調べなければならない。それに文化の大体の状態と余り矛盾しないようになど、それは人文学、社会学などの方法をもって調べることができます。けれども、それは最低の条件を明らかにすることにすぎないのです。できるだけその最低条件を満たさなければならない。それを超えた美が新しい次元を開けるというのも事実ですから、それは前もって決めることはできません。やはりアーティスト個人の才能によらなければならないのです。それは新しい見方をつくり出す可能性はあるけれども、あるいは結局ほかの人に全然受け取られないような結果をもたらす可能性もあります。それは前もって決めること、理解することはできないのです。

 片柳 景観の問題を加藤先生が出された中で、ある意味では近代的な個人主義が生活レベルで歪曲され、拡大再生産されて、行政がちゃんとそれをチェックするような対応ができていないことの行政の無力さということを言われましたですね。それに対して、行政の無能さということだけで済むのかということに関して、永岡薫先生(滋賀大学名誉教授、政治学)、その問題で何かありましたら。問題は行政の無力さの問題なのか。行政の無力さということで加藤先生は今の大きな問題として景観が非常に勝手に、ある意味では企業の経済的な効率のために消されてしまう、その問題を行政の無力さの問題というふうに提起されましたけど、行政ということだけで済むのかという問題ですけれども。

 永岡 私は、このシンポジウムの時間に遅れて参りまして、不案内な形で申し訳ございません。確かに加藤先生がおっしゃった「行政の無力さ」というのは、私は先のお話の時に先生から耳にさせていただいたように思います。その時に私は、それは無力さというよりか、「行政」が本来の近代的な「政治」の枠組みの中に位置付けられた「近代の行政」としての意味とそれにふさわしい「力」(power)を保っておれば、「社会」へのいわゆるサービス(奉仕)という視点が「行政」に極めて基本的な、近代的姿勢として貫かれているはずですが、残念ながら世界の中で、そうした姿勢をもって行政を位置づけ、かつアクチュアルに機能している国は必ずしも多くない。また、あっても人間のさがでしょうか、行政はそういう本来の自由な社会というものを育てるためのサービスの理念に貫かれたアドミニストレ−ションとしては働かない。だからビューロクラシーの支配としてのみ働く。それは「近代」としては余りにも卑しいのではないでしょうか。行政の強さのゆえの、行政のかえっての力のなさが。近代以前の行政と近代の行政は本来違っているべきですね。それは市民社会的なものが出てまいりました近代における政治哲学で位置づけられる行政とそれ以前の行政というのは、これは同じく行政(governmental administration)なのですが、その「力」は、自由なサービスとして強く働く「力」であるのか、そうでなく、ただウェーバーの言う「国家支配」(Staatsherrschaft)としてのみ強制的に強く働く「力」でしかないのかで、両者は全く違うことになります。だからイギリスやオランダ、或いは北欧のスエーデンなどの行政と大陸の行政というのは、想像以上にヨーロッパでも違うと思います。(註:ウェーバーの、ドイツにおけるドイツ語の「国家」(Staat)に限らず、歴史的に「人権宣言」の先輩国フランスのフランス語の「国家」(État)もさきの北欧やとくにイギリスのコモンウェルス(commonwealth)における「国務会議」(Council of State)のStateと違うのでないか。前者の大陸の国家は、近代の「政治社会」(political society)としての国(commonwealth)における政治と行政の合議的調整オフィスとしてのministerial coucil of stateと違っている。フランスにおけるÉtatもドイツのStaatも、すぐれた各々の近代性にもかかわらず、「行政」をして真に市民社会に「奉仕」(ministrate)せしめる「政治力」(political virtue=power)が歴史的に時熟するには未だしといった面が強いからである。この点の理解には、理論的明晰が十分、まさしく「近代」における思想的成熟のプロセス(たとえばMilton, Lockeにみられる)に支えられていることが不可欠であろう。)その点を私は制度論だけでなく、近代の「政治」哲学・思想の歴史と関わらせて申し上げたいのですが、今はこれで終わりに致します。

 片柳 加藤先生、行政と住民の問題に関して。

 加藤 先生のようにそんな高級なことを考えていたのではなくて、例えばドイツの私が住んでいた下宿では、市の係員が回ってきて、花壇が荒れていると、「庭師を呼んで手入れをしてください」と言うんですよ。下宿のおばさんは、「庭師を呼ぶと50マルク取られちゃう」と言うんです。「あんなことをやっていたら、私の財産はみんな庭師に取られちゃう」と言って、しょっちゅうお役人とけんかをしているんですよね。観光地といい難いボーフムで、お役人が一軒一軒の家を見て、庭が荒れていると一々文句を言いに来るというぐらい、景観というか、町の雰囲気、生活空間がきれいであるかについて、ものすごくお節介なんですよ。そういう在り方でやってもいいのではないか。

 しかし、日本の景観規制というのを見ていると、明らかにわざと手抜きをしているのが露骨にわかるんですよ。つまり景観規制をやっていますよという法律はつくっても、わざと手抜きをして、やらないということが露骨にわかるということです。

 片柳 それをチェックするのは住民運動では済まないということですか。

 加藤 住民運動でもいろんな形でチェックすべきだということですね。

 片柳 今日はお忙しいところをたくさんの方に集まっていただきました。今日さまざまな議論がなされましたけれども、人間が生きる自然という問題をどういうふうに現在において考えていくか、ということが中心であったと思います。和辻哲郎から示唆されたように、我々は直接の事実から出発しなければならない、そこから自然というものを考えていかなければならない。これがある意味で基本の認識であったと思います。その意味では、ある意味で近代的な世界観に対して或る反省を迫る、そういうことが中心になったと思いますけれども、その中から、例えば加藤先生は、我々のなじみの自然、そういうものに慣れてしまって、それだったらいいというふうな態度に対して、ある意味ではそれを単なる一つの相対的なものとして、もっと自然なものを未来に求めていくというような態度を求められました。それは我々に求められる基本的態度であると思われます。ある意味で我々は自分の中から出発しなければならないわけですけれども、しかし、それだけでは単なる自分だけの人間だけの世界になってしまう。人間を超えている物理学的な規定をも我々は真剣に受けとめねばならない。また、同じ人間として他なる人々の間で生きる課題がある。そしてまた我々の後に来る未来の世界、そこにおけるさまざまな可能性も考えなければならない。そういう意味で、自分の世界から出発しながら、自分を超えた世界を見つめるような、そういう意味でも先ほどの和辻の言葉で言うと、自分を超えること、それ自身が人間であり、そういう在り方を新しく考え直さなければならない。自然そのものを考える中でもう一度そのことを考えていかなければならない。そういう示唆を与えられたように思います。

 そして、そのことはベルクさんも言われましたように、自然は我々にとって一つの地平から見られたものであり、ある限られた、我々に見えてきた自然であり、何か決定的にわかっているようなものではなく、DNAにしても既にわかった事柄なのではなくして、それも我々が現在持っている一つの地平なのであって、それを越えた大きな現実という、事実という、リアリティーというものに対しては、やはり我々はいつも開かれていなければならない。そういう示唆を与えられたように思います。そういう意味で、我々は改めて和辻やベルク氏が提起した「自らを超えて」という、人間存在の基本的在り方から、自然と人間という問題をもう一度考え直していかなければならないという示唆を与えられたように思います。

 今日は遅くまでご清聴いただきまして、ありがとうございました。講演者、それから発題者の皆さんにもう一度拍手をお願いいたします。