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国際シンポジウム「「自然という文化」の射程」

―シンポジウム―

 片柳 それではシンポジウムを始めたいと思います。

 最初に、加藤尚武先生に発題をお願いします。加藤先生に関しましては紹介するのが失礼なぐらいご高名な方ですけれども、1937年東京生まれで、現在は鳥取環境大学の学長をされております。その前は我々の文学研究科の同僚であられました。

 先生の業績といったら数えられないくらいあるのですけれども。

 加藤 数えられますよ。(笑)

 片柳 これはメタファーです。

 主なものとして、『哲学の使命』、また『ヘーゲル哲学の精神と世界』これは未来社から1992年に出ておりまして、和辻哲郎文化賞を受賞しております。ヘーゲルを中心としたドイツ観念論、観念論という言葉は余り好きではありませんけれども、ドイツ・イデアリズムスの哲学の研究者として私などはおつき合い願ったのですが、現在は生命倫理学と環境倫理学を含む広い応用倫理学の分野で非常に活躍をされております。

 では、加藤先生、お願いします。

基調提題

加藤尚武

 加藤 オギュスタン・ベルクさんの話は大変哲学的な話だったのですけれども、私は正真正銘の哲学者で、職業的哲学者なんですが、今日の話は全然哲学的な話ではありません。どうしたら今の日本で進んでいる景観、風景の破壊は阻止することができるかという極めて実際的な問題です。まず最初に、美的価値と所有権に関してゴッホの絵は持ち主が燃やしていいかという問題を考えてもらいたいんですね。斉藤了英という大昭和製紙の会長さんが83億円でゴッホのアイリスを買った。ところが、買ったことに対してものすごく非難を浴びたんですね。そしたら自分が死ぬときは棺に入れて燃やしてほしいという、とてつもない遺言をしたわけです。斉藤了英さんは死にました。ところが死ぬ前に、彼は借金が返せなくなったので、ゴッホの絵は借金のカタに取れて現在銀行の金庫に眠っているんです。もしもそれが借金のカタに取られなかったならば本当に燃やすかという問題になるんです。どういうふうにすれば、「おれの持ち物なんだから燃やそうと勝手だ」と言う人に対抗することができるか。

 問題は、個人の所有物が余りにも多くの人々にとって価値のあるものになっているという事態です。では私が富士山の所有主で、死ぬときに爆破してもらいたいと言ったらどうなるか。

 所有物であれば所有主の勝手にできるという、その原則それ自体がいいのか悪いのかという問題です。イギリスでは「ナショナル・トラスト」運動が19世紀の末ごろから始まっていて、ジョン・スチュアート・ミルも参加者だったと言われております。重要な景観を保存するために皆がお金を出し合って土地、建物を買い取って、保存するという運動です。現在では「ネプチューン計画」というのが進んでいて、海岸線の保存のために非常に多くの土地を買い入れている。そういう運動が行われていますけれども、地球の温暖化で海面が90センチ上がったら、せっかく買った海岸線が全部めちゃめちゃにつぶれます。よい地主が所有することによって環境が守られるということは結構なことなんだけれども、よい地主が所有しなければ環境が守られないというのは一体どういうことだろうか。

 ゴッホのアイリスの場合には、単独の作品であって、全体のキログラム数も1キロか2キロぐらいの軽いものなんですが、景観となりますというと複数の所有者が土地の所有者だとか山林の所有者なんです。その複数の所有者が一つの景観を持っているのではなくて、まさにこちらの浜辺とこちらの森とが総合されたときに初めて一つの景観を持ているので、誰一人として景観それ自体の所有者ではない。ゴッホの絵とはかなり違っている。そういうものに対して所有権を取るという形でしかそれを保護することができないのか。

 法律に訴えることによって景観の破壊を食いとめることができるかという1つの例として和歌山県の和歌の浦訴訟があります。和歌の浦というのは「和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」という『万葉集』の中でも一番ポピュラーな歌の舞台であって、そこに架かっていた古い橋の景観を壊すような形で新しい橋を建てるというので、「税金のむだ遣いだ」という訴訟を起こしたんです。そして、起こした側は、 憲法に違反するというので憲法の条文を並べ立てた。 憲法13条「すべて国民は個人として尊重される」とかですね。23条がどうして関係があるかというのはなかなか難しいのですけれども、「学問の自由はこれを保障する」というのと橋を守れというのと、どこでどうつながるのかちょっと難しいのですけれども、国文学者の先生なんかを連れてきて、あの橋の景色が壊されたならば学問の自由が侵害されるという、そういう論陣を張ったようです。「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利がある」とか、「社会福祉、社会保障、公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とかという理由を並べたのですが、検察側の論法は極めて鋭く、この原告側の主張をずたずたに切りさいなんで、結局ほとんど被告側の主張と同じ主張を判決に盛り込むような形で、この和歌の浦訴訟は敗北したわけです。

 畠山さんという北海道大学の有名な環境法の大家が、せっかく立派な法律が制定されても、企業や行政が法律に違反して自然に悪影響のある行為を決定した場合、それを是正する方法がなければ、結局、違法行為は野放しになり、法律の趣旨に反して自然の破壊や種の絶滅が進行することになると述べています。

 訴訟を起こしていい資格、あるいは訴訟を起こしていいチャンスの設定の仕方がアメリカの訴訟法と日本の訴訟法では全く違います。アメリカでは住民や自然保護団体に裁判を起こす機会が広く認められていて、裁判所が法律の文言や趣旨を尊重した的確な判決を下すことで、裁判所は自然保護に寄与しているわけです。

 日本の場合には、「当該処分又は決裁の取消を求めるにつき法律上の利益を有する者のみ」ということで、最高裁は原告適格の範囲を、当該処分により自己の権利もしくは法律上保護された権益を侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者をいう」というので、例えば誰かが私の自動車に爆薬を仕掛ければ当然訴えることができるけれども、私の隣の家の子供が親から虐待されているときに私がそれを訴え出ることはできません。最近は子供を守る法律をつくって、隣人が訴えた場合でも、それを担当者は処理しなければならないというふうに変えられましたけれども、では裁判所に訴えて子供の被害を救うことができるかといえば、隣の子供がどんなにひどい権利侵害を受けていても、私自身が権利の侵害を受けるおそれがあるのでない限り、訴えを起こす原告適格が与えられない。

 アマミノクロウサギだとか風景だとかという場合に、おまえは一体それで何の被害が起こっているんだ、おまえ自身胃が悪くなったのかというと、別に和歌の浦の景色が壊れたからといって胃が痛くなったとか、そういう証明書をお医者さんにつくってもらうわけにもいきませんから、どうしても門前払い型の訴訟になっちゃうんですね。つまり、あなたの訴えが正しいか正しくないかではなくて、あなたはそもそも訴える資格がないのだという形で却下される形になります。和歌の浦訴訟の場合には訴訟案件が幾つかあって、そのうちの幾つかは門前払い型の訴訟になったわけです。

 日本では憲法上、景観の規制はできないのかというと、既に実際に景観の規制は行われておりまして、明治44年に屋外広告物取締り法、それから昭和24年に野外広告物法というのができて、これは野外広告物の場合にはずっとほとんど動いていない、眠った法律だったのが、東京オリンピックを行うというときになって急に実際に動き始めたのです。広告規制を呼びかけた先駆者がおりまして、これは1934年の訴えかけなのですが、日本の看板はひどいという話があります。和辻哲郎の『風土』にも、日本の都市はいかに俗悪さに満ち満ちていると書かれています。和辻さんはすごい日本びいきだけど、その中で日本の悪口を言ったところは大体日本の都市の俗悪さを訴えたところだったと私は記憶しております。

 そこで、どういう基準で屋外・野外の広告物を規制するかということが問題になるわけです。有名な例としては、真鶴市の美の基準というのがあります。これはイギリスのチャールズ皇太子が建物について、非常に醜い建物が多いからけしからんという訴えをしたところが、自分たちもチャールズ皇太子と同じような美意識を自分たちの町に確立しようというので起こった運動の成果だそうです。真鶴市ではチャールズ流の基準をつくったのです。

 真鶴市のようにポジティブな基準をつくると、「おれはあの基準には異議がある」というので、なかなか意見がまとまらない。ネガティブな基準のほうがむしろ普遍化しやすいかもしれない。同意が得やすいかもしれない。大体は野外規制は、悪いものが極端になればその規制を賛成する人が増えるので、よいものの基準はつくりにくいけれども悪いものの基準はつくりやすいという、考え方のほうが実用的だと思うのです。

 美意識の規制について法的な強制力がどのぐらい有効かという問題について、これは東大の西村さんの意見なんですが、まず一番多いのが、美観に対する意識は主観的であるから行政的な措置にはなじまないというので大体つぶされてしまうというのです。風景、景観の保護というのは主観的なんだ、しょうがないんだ、規制ができないんだ。

 例えば一般的な福祉の拡張解釈で、これは和歌の浦訴訟の場合にも「健全で文化的な生活を営む権利」というふうな国民一般の福祉を美しい空間に生活する権利という意味にまで拡張しようという、一般的な福祉の拡張が行われました。

 それから、これは迷惑禁止条例なんかで騒音の規制だとか悪臭の規制と同じように、余りにも醜い看板は視覚公害として規制できる。これは普通ヌイサンス規制と言われている規制です。それから、鎌倉市なんかでよく使われているのは、美しい景色は地域の共同の資産であるという共有財概念の拡張という形で規制をしようという考え方もあります。

 それから五番目は、最近の環境論では、自然環境だとか田園環境の保全という形で、社会生活全体の計画を自然環境を生かすような形で行うべきだという議論があって、それぞれみんなある程度までは法的な強制力の根拠になるわけなんですけれども、実際にこれでうまく軌道に乗った形で景観保護ができるかというと、それほどでもない。

 野外広告の規制が現状でどうなっているかということについて、同じ西村さんがこんなことを言っているのです。「自家用広告物は適用除外となっている」。だから、自己の氏名、名称、店名、商標、自己の事業もしくは営業の内容を表示するため。カメラの何とかなんて、ばかでかい広告があるじゃないですか。あれは普通の看板規制よりも緩やかなんですね、自分の会社だから。最近では洋服の青山なんて、建物と同じ大きさでもって青山と書いてあるのが方々にできています。昔、日本人は、人生至るところ青山(せいざん)ありと言ったのですけど、今、日本人は、日本中至るところ青山(あおやま)ありというふうになってしまったわけです。これは自家用広告物、自分の名前だとか商業目的を公示する場合には規制が緩やかであるというところを抜け道として、ばかでかい広告を出して景観を破壊している。

 松原隆一郎さんは、東大の経済学者で、空手五段で、空手の本も書いています。彼の指摘によると最近の商業形態にロードサイド営業というのがあって、特に、レギュラーチェーンだとかフランチャイズ店として連鎖的に出店される。そうなると、その店の看板の規格だとか色だとかは全部周辺の環境とは全く無関係に、統一されていますから、「あの赤紫色は困る」と言っても変えてくれないわけです。

 それから、コーポレート・アイデンティティといって、ジャスコは必ず赤紫色とか、そういうふうに大きさや色まで全部統一されている。

 ヨーロッパの例えば古い町並みなんかで非常に調和のよくとれたものというのを見ていますと、一つ一つの建物の形も色も全部違っているけれども、全体としては非常に調和的というのがよくあります。かなり厳しい規制のもとに行われた場合もあるし、厳しい規制がなくても、一つ一つの建物が周りの建物と調和する形でもって選んでいった結果、何百年かたって非常に見事な市街地ができ上がったり、あるいは自然景観と都市景観との調和が達成されたりするという、そういうコンセプトが実際生きて働いているという場合があると思うのです。日本の場合には、例えば地方都市で美術館をつくるときも、周りの建物とは全く無関係に、ともかくどかんとしたものを建てようとして、公共建築物ですらも周辺との景観上の調和はほとんど考えないでつくられている。

 松原さんの本に出てくるフランスのロワイエ法とラファラン法は、大型店舗の規制についての法律なんだそうですけれども、ドイツもそうなんですが、大型店舗の規制が日本では大体アメリカから圧力を受けて大型店舗の規制を緩めてしまったのですけれども、単に商業上の大型店舗規制で都市のドーナツ化がどうのこうのという問題だけではなくて、景観の問題と同時に処理されています。だから、都市の中核部分がドーナツ化することによって麻痺状態になった都市空間をつくらないようにするということと景観の規制とを両方やるという形で有効性を発揮している。日本でもそういう形でやれば、ロードサイドの商業だけがどんどん大きくなっていく、都市のドーナツ化が進んでいくというような形とは違うものができ上がっていくのではないかと思うのです。

 日本の場合には憲法上の制約があるから規制ができないという、和歌の浦訴訟から見るとそんな気もするわけです。例えばイタリアの憲法みたいに、古い景観だとか文化遺産を保護するということが書いてある。スイスの憲法でもそれ式のことが書いてあります。日本ではそういう憲法上の規制が弱いので景観の保護ができないというよりは、むしろ行政の側が景観破壊のお先棒を担いでいる。行政は景観を守るために先手、先手を打っていって、住民の側がそれではやり切れないと言うならば憲法を盾にとって訴えを起こせばいいという構造にならないで、むしろ行政の側は景観破壊を助長するような形になっているのではないかと思うのです。

 松原さんの書いたものの中にも書いてあるのですが、若者に「ああいう汚らしい景色をもとに戻せ」と言うと、「いや、あれが懐かしくていい」という声が出てくるというのです。例えば日本の場合ですと電信柱なんかですが、例えば斉藤清だとか谷口六郎なんかだと電信柱が重要なモチーフになっていて、斉藤清の版画の中に出てくる電信柱を撤去すると言ったならば恐らく住民が反対するんじゃないかと思うのです。

 過去の思い出は人格形成にとって大きな要因であるから、その過去の景色をそのまま残してほしいという形で景観の保護を例えば人格権と結びつけるという形をとるのか、それとも少しずつよくしていって、ずっと永久に景観をよくしていくということを我々住民の全体的な課題として受けとめるというような形になるのかと考えますと、景色というものはどうしても変わっていくものですから、あらゆる人が景観を何百年かかかって育てていくというよう形になることが望ましいのではないかと思うのです。

 例えば子供のときから見てきた高圧線の走る光景がだんだん自然的な光景に変わっていくとき、未知の新しいものに向かって変わっていくという感覚よりは、何か本来あったものに変わっていくというような感覚もあると思う。今まで特に日本の景観で崖崩れを防ぐためのコンクリートだとか、物理的に住民を保護するために破壊した景観もあるわけなんですけれども、もし願わくば、これから日本が何百年かかけて日本の景色をだんだんによくしていく。伝統ある大学の真ん前にパチンコ屋が軒を並べているのは日本だけだという説もありますけれども、あらゆる意味で景観を保護するということが国民全体の課題になって、それをまた法律や行政がバックアップするという、そういう文化をこれから我々はつくっていかなければならないのではないか。そういうところでベルクさんの考えとどこかつながるところはないでしょうかね。

 ともかく私の話はこれで終わらせていただきます。

 片柳 日本の景観をめぐる現実のいわば近代化の歪曲とも言えるような問題点を指摘されながら、最後の結論は非常に我々にとって示唆的であったのではないかと思います。これについては後ほどいろいろ議論があるかと思います。それでは、続きまして内山勝利先生にお願いいたします。内山先生は本研究科の西洋哲学史の古代の担当教授であります。

 では、お願いします。

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